所在不明な理由 +++++ 6 | |
喫茶店のドアを潜ったさんと目が合うと、彼女は嬉しそうに笑んでみせた。心の準備をしていなかった俺は、その不意打ちに心臓を早鐘のように打たせることになった。その全開の笑顔は今の俺には拷問でしかないよ、と心の中でぼやいて、間近で見なくて良かったと弱気にも思う。これが至近距離だったら、抱き寄せてしまっていたかもしれない。気が付いてしまった恋心は、今まで抑えていた枷を軽々と外してしまってやっかいこの上ないと、溜息を呼気に逃がした。 席を案内しようとしたウェイターに小さく首を振って、さんは俺の向かいの席に着いた。 「お待たせしました、冴木君。お久し振り」 「久し振り、さん。元気だった?」 一月振りに見るさんは何だか綺麗に見えて、目を眇めた。 「うん。元気よ。でも、冴木君に会えなくて寂しかったな」 「……ん、俺も」 この自覚のない殺し文句に泣きたくなる。平静を装って応える自分の声が、裏返ったりしないように細心の注意を払って、珈琲カップに指を伸ばした。 さんが思うよりもずっと逢いたくて堪らなかったと、そう伝えたらどうなるだろうか?困ったように笑むだろうか、それとも本気にも取って貰えないだろうか。小さく口許に苦笑を刻んで視線を逸らすと、さんのそっと水の入ったグラスに伸ばされる指が、綺麗な薄いピンクに塗られているのに気が付いた。普段は塗っていないのに、どうしたのだろうと些細なことでも気になる。 「一月、とちょっと振り、かな?」 グラスを運んだ口許は、指先と合わされた薄いピンク。花めいた印象を与える。心なしかほのかに香水の薫りもする気がした。何か良いことがあったのかもしれない。痛む心臓に知らない振りをした。 「そのくらいだね。あの映画以来だから」 「冴木君、忙しかった?」 少し、拗ねたように見えるのは俺の願望だろう。さんはいつものように紅茶を頼むと首を傾げて俺の顔を見た。 「少し、仕事が立て込んでたかな」 実際は地方行きが飛び入りで一回入ったくらいで、順調な一ヶ月だったけれど、連絡を取らなかった本当の理由は言えたものじゃないから、笑みと共にさらりと流す。 「身体、壊さないようにね。一人暮らしなんだし、寝込みそうな時は連絡してね、お見舞いに行ってあげるから」 「さんが来てくれるなら、病気になっても良いかも」 「なに言ってるの。病気って辛いものよ、そんなこと言えるってことは冴木君、あまり病気しないんでしょう?」 「あはは。その通り。実は健康優良児です」 誤魔化した疚しさと、さんの誤解しそうなほど嬉しい申し出とが入り交じって、俺に浮かれた物言いをさせる。 「体調管理とか、きっちりしてそうよね、冴木君て」 「そう見える?」 「うん」 「まあ、体調管理も大切な仕事の内だから」 「そうだよね。あ、そういえば、今日は碁の日だったの?」 さんは手合いを碁の日、セミナーや指導碁などを碁のお仕事と簡単に言う。その可愛い言い方が好きで、敢えて詳しく言ったことがなかった。自分自身、さんにならって、碁の日、と思った方が肩肘張らずに打てる気がする。 「ん、碁の日」 「どうだった?」 「一応、勝ってきました」 「わ、おめでとう!今日は強い人との対戦の日なんでしょう?」 カップに残っていた珈琲を飲み干すと、笑みが口許に浮かんだ。さんと逢う日に負けてなんかいられない。負ける気もしなかった。 「段が上の人相手だったけど、さんに逢う前に負けてられないからね」 「それは私の効能?」 「そう。さんのお陰」 「そうかー。私の効能かー。じゃあ、今日はお祝いの御飯を食べに行かない?私が奢るから」 「さん、いきなりだねぇ。良いって、そんな気を遣わなくて」 突然の申し出に焦った。割り勘ならまだしも、好きな女性に奢って貰う訳にはいかない。 「え?御飯、食べていかない?」 用ある?とそれこそ寂しそうに言われて、慌てる。 「飯は食べていくけど、さんに奢って貰う訳にはいかないって」 「でも、久し振りだし、勝ったお祝いだし」 「どっちかっていうと、勝って気分が良いから、俺の方が奢りたいくらいで。うん、そうしよう。どこが良い?さん」 「ちょっと待ってよ、冴木君。何時も割り勘より多めに払ってくれてるのに、私こそ奢って貰う訳にはいかないって」 反転した話に今度はさんが焦る。さんとしては年上だという自負があるのかもしれない。でも、これは俺の方も引けない話だ。 「さん。さんはもしかして年下に奢って貰うのは、とか思ってるのかもしれないけど、俺としては女性に奢って貰う訳にはいかないの。年齢とか関係なく、男と女として見てよ」 別の気持ちも込めて、さんの顔を覗き込んで言葉を伝えた。 年下だと思わないで、俺を一人の男として見て欲しい。 「冴木君……」 「ね、奢らせて、さん」 困ったような笑みを浮かべて殊勝にお願いするのに、さんは弱くて、これを使うといつも折れる。案の定、本心からの困った表情でさんは迷いながら口を開いた。 「うん。じゃあ、今回は御馳走になるね。でも次は私が奢るからね」 おかしいなぁ、どこで話が違っちゃったんだろうと、小さくぼやくのに、素知らぬ振りをした。 「ん、次ね。それじゃあ、さん、何が食べたい?」 「え?冴木君の好きなもので良いよ?」 「折角、奢るんだから、さんの好きなものを奢りたいな」 にっこり笑ってさんの顔を覗き込む。 「え、でも……」 「和食?中華?イタ飯?あ、フレンチでも良いよ」 ほんのり頬を朱く染めたさんに反論する暇を与えず、畳み掛けるように聞く。 「えーと、冴木君の今日のお昼は?」 「棋院の近くのお蕎麦屋さん」 「じゃあ、和食は止めた方が良いよね?昨日の夕食は?」 「だから、さんが食べたいものにしようって」 俺は健康優良児だから何でも食べたいと、苦笑して、さんを宥める。 「私は冴木君の食べたいものが食べたいの」 こんな些細な言葉にも揺らされる。上下降のきついジェットコースターにでも乗ってるようだ。それでも目の前にいるさんには代え難いから、胸の痛みを抱き締めて笑った。 |
引き続き、冴木さん悩み中。 悩みながらも、密かにアプローチ中。 そして、そんなことがある訳がないと、思い込んでいるヒロイン。天然というより強情者ですね。先が思いやられます…。 この調子で、さくさくといきたいと思いますので、また覗いてやって下さいませ。 20031022 |