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腐敗する恋 愚者の恋
 ソファに埋もれるように身体を預けて、片手に持ったワイングラスを揺らす。鼻腔をくすぐる香りは赤ワインの芳醇なもので、原型の葡萄の瑞々しい甘い香りは跡形もなくなっている。作為によってこんなにも変造してしまった元は葡萄であったワイン。発酵の末にこんなに綺麗に美味しいものになるなんて、なんて羨ましいのだろう。羨ましくて、嫉ましくて、ワイングラスごと床に叩き付けたくなる。私の想いはワインほど、綺麗にならないから。どうしようもなく、醜く変貌し続けるだけだから。  キッチンから出て来たところで、手に持ったグラスを一心に見詰めているさんが見えた。何か心にあるものを真剣に考えているような表情が、整った横顔に浮かんでいる。
 綺麗だと思う。
 所作は元より、ふとした時に見せる表情も他人に対する気遣いも何もかも、さんは綺麗だと思う。そう思ってしまう時点でこの病は重症なのだときっちり理解している。だからこそ、こんな抜き差しならないところに陥ってしまっているのだ。
「−−さん。どうしたんですか?」
「え?あ、お帰りなさい」
 キッチンへ摘みを調達に行っていた光二くんが戻ってきた。最初に用意した分はとうに互いの胃袋に消えてしまっている。ワインボトルとグラスだけになっていたテーブルの上にお皿を置きながら、とさりと一人分より少しだけ近い場所に彼は腰を下ろした。  無意識のうちに口許に掃いていた苦い笑みを消すと、両手に追加の摘みの皿を持って戻る。テーブルの上に置きながら、先程よりも少しだけ近い場所に座った。勿論、意識的に。これだけ飲んでいる今なら二人の距離を縮めても、きっと気付かないだろうし、全ては酔いの所為にしてしまえる。
「ワイングラスを親の敵のように睨み付けて、どうしたんですか?」
「え、私?そんな顔してた?」
 見られていたのかと自分の手落ちに内心溜息を吐くけれど、表面上は何でもないようにさらりと返す。そんなことはもう慣れて、ポーカー勝負なら誰が相手でも勝てる自信だってある。  視線を上げて俺を見たさんに笑い掛けながら言葉を重ねると、彼女が驚いたように問い返してきた。
「してました。何を考えていたんです?」
「あ、うん。なんでこんなに美味しいのかなぁ、って」
 美味しいワイン、美味しいお摘み、そして隣には光二くん。こんなに幸せに思える状況なのにどうしてこんなに痛いんだろう。痛くて痛くて、どうしようもなく笑うしかなくて、なのに幸福を感じる。きっともう、何処か可笑しくなっているのだろう。自嘲しながら、綺麗に盛られた人参スティックに手を伸ばした。  僅かな逡巡は、答えが全くの事実ではない可能性を示唆するけれど、彼女が言うのなら、それが真実。
「答えは出たんですか?」
「答えねぇ……。あるのかしら?」
「ありますよ、沢山」
「沢山は要らない」
 人参をぽっきりと割って、切り捨ててみる。欲しいものは一つだけ。手に入る確率なんて限りなくゼロに近くて、なのに近いだけでゼロじゃないという錯覚に迷わされて諦められない。そんなものが欲しい私に合う答えだけ欲しい。  彼女は笑いながら、笑っていない真摯な目で人参スティックをぽきりと割る。その音が静かな部屋に大きく聞こえた。
 こういう人だから、好きにならずにはいられなかったのだ。
「その中からさんの好きなものを選べば良いんですよ」
 そう言って笑う光二くんの横顔はいつもの優しいものでも、楽しそうなものでもなく、感情の読み取れない形作られた笑みだった。
 ワインを一口、口に含んで嚥下する。酸味が舌の上に残り、薄れていく。
 本当に欲しいものを知っていて、それだけを選ぼうとする彼女は、あまりにも潔すぎて、胸が痛む。もっと強欲になって良いんだと大声で言いたいが、おそらくさんはその言葉に頷いて、そして綺麗に笑うだけだろう。だからこそ、その分を与えてあげたいと強く思う。
「……じゃあ、そうする」
 目蓋を伏せてそう答えると、溜息を吐いた。  そんな風に溜息混じりに覚悟を決めなくても良いように。
 だけれど、そんな権利は俺にはなく、気持ちのままに伝えたら、溜息の原因にしかならない現実が目の前にある。
 言葉にならない想いで彼女を見詰めると、そっと伏せた瞳を上げて、おそらく今日この部屋を訪れてからずっと心に抱え込んでいたことを、足許の氷の厚さを確かめるような慎重さでさんは口にした。
「ねぇ、もしかして知ってる?」
「どれのことですか?」
「菜穂子のこと」
 一年前まで光二くんが付き合っていた私の親友。二週間前に結婚して、昨日、新婚旅行から帰ってきた彼女。光二くんに言うか言うまいか悩んだ挙げ句、口を噤むことにしたのに、今日の光二くんがあまりにも見透かすような瞳をしているから、結局、口にしてしまった。  前の彼女の親友に惚れるなんて、本当に莫迦だと思う。
 最初は彼女の親友で、そのあと掛け替えのない飲み仲間になって、気が付いたらすっかり惚れていた。だけど、彼女の意識の中では最初に貼られた親友の彼氏というレッテルが貼られ続けていて、色褪せていてもそこに揺るがずにある。当事者の俺達は別の道を納得ずくで選び、思い出は美しく飾られ、互いにもう何の感情も持たないのに、さんだけに見える繋がりがある。
「知りませんけれど、推測は出来ましたから」
「推測?」
「大安の日のさんのスケジュールと、その前後の気を遣うような素振りで、
多分、結婚したんだろうって」
 やはりという思いが溜息となって零れた。こんな気持ちのいい筈のない話でも、光二くんは変わらず優しい物言いをする。菜穂子と別れる前も後も、少しも変わらない態度で私に接する。元彼女の親友でも、飲み仲間でも、恋愛対象にないと言う点においては同じだから。本当なら、そんな理性的な姿勢は歓迎すべきなのに、傷つく自分が哀しい。  そう言うと、彼女は小さく溜息を吐いて、自嘲するように笑った。そんな風に笑わせたくないのに、それでも俺の為に心を痛めてくれるのを嬉しいと思う自分が居る。
「修行が足りないわね」
「俺が聡いんですよ」
 和ませるように自信過剰に言う光二くんに合わせるように精一杯、尊大に振る舞う。  逢いたいという理由だけでは逢えないから、逢っている間はさんしか見えていない。その時間は思考の一部である囲碁でさえも、頭から薄れているかもしれない。
「言うじゃない」
「ええ」
 ワインボトルを手に取ると、光二くんは私のグラスに近付けた。三分の一以下に減っていた紅い液体を見て、そっとグラスを差し出す。とぽとぽと注がれる神の血の芳香が僅かに立ち上る間から、光二くんが言葉を紡ぐ。  それほど見ているのだから、さんのここ最近の途惑いに気付かない訳がない。自信を持って言える。
 少なくなった彼女のグラスにワインを促すと、さんは素直にグラスを差し出した。
「−−本当にもう終わったことです。俺は全く気になりませんし……。
ああ、気にならないと言うより、世界人類の平和を祈るように
彼女の幸せを祈る気持ちですね」
 彼の眼差しはワイングラスに向けられていて、言葉は淡々と静かに空気に溶け込む。そこには何の気負いも嘘もなく、事実だけがあることが解った。疾うに私も分かっていた事実が。
 ただ行く先のない想いだけが胸の中に沈殿していく。
 今日は全く酔いの見えない彼女を酔わせて、潰して、そして手に入れたらどうなるだろう。世界平和の横で、誘惑が脳裏を過ぎった。
 けれど、過ぎっただけだった。彼女の信頼を裏切れない。この蜘蛛の糸のような細い関係すらも失われたらと思うと、怖くて手を出せない。さんの傍にいる為に、彼女の望む役割を演じる偽善者で臆病者でしかない。
「そう。でも、光二くんに気付かせるべきことじゃなかったから、ごめん」
さん」
 ワインを置いたその手でくしゃりと髪を撫でられる。瞳を合わせると笑みを向けられた。静謐な、まるで菩薩さまの表情のような笑み。
 目蓋の裏が熱くなったのをどうにかやり過ごそうと、目を閉じた。咥内を判らないように噛み締めて、再び、目を開けると、当然のように視線が合う。
 そんな俺にも遍く菩薩の慈悲の如く、さんは優しい。
 湧き上がる愛おしさに、彼女に手を伸ばした。柔らかい髪を弟弟子にするように気軽く、けれど狂おしいほどの気持ちを込めて、彼女の髪を撫でた。指先に万が一にも気持ちを悟られないように細心の注意を払って、彼女に触れた。
 一瞬き、瞳を隠し、再び、顕わになった瞳は真っ直ぐ透き通っていて、知らずの内に口にしていた。
「有難うございます。さんのそういうところが好きですよ」
「私も……」
 光二くんが好き。
 どこが、ではなくて、目の前にいる冴木光二の全てが好き。
 どうにもならないこの想いに雁字搦めになって動けない。立ち去ることも進むことも出来ずに、ただこの場所に立ち続けるだけ。そして、この想いが腐敗していくのを見るだけ。
 醜く変じていくだけのこの想いだけれど、ほんの一瞬で良いから綺麗な芳香となって彼に届くことを祈る。

 どうか、この神の血のように−−。
 柔らかい憂いを秘めた笑みを浮かべて、彼女はそう呟いた。
 その言葉の続きを聞くことが出来ないことは十全に分かっていて、それでも切望せずにはいられない。

 神の慈悲ではなく、人の欲望(エゴ)を俺に−−。




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幸せではない話。この時期になると、こういうのをやりたくなるんでしょうか?確か、去年もリリカル話を書いた気がします。心が冬なのかしら(笑)。
このスタイルはオフラインでは何度かやったことがありますが、オンラインでやる切っ掛けになったのは、他ジャンルでこの仕掛けを見かけたからです。この場で何なんですが、参考にさせて頂きました。有難うございます。
                                        20041201

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