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幸福論改訂  +++++ 1
 週に一度の師匠の研究会。何時ものように、三和土で靴を脱ぎ、挨拶をしながら襖を開けると、見慣れない人影があった。
「こんにちは。白川さん、早いんですね」
 部屋の中では弟弟子の和谷に進藤が、何時もはもう少し遅い兄弟子の白川さんと見知らぬ女の子を囲むようにして座っていた。
「ああ、冴木君、今日は師匠にお願いがあってね。あ、この子、ちゃん。僕の従妹。宜しくね」
 そう紹介されるとその子は畳の上に正座をして、深々と頭を下げた。
です。宜しくお願いします」
「冴木光二です。こちらこそ、宜しく」
 慌てて、彼女の目の前に座り、俺も頭を下げる。
「冴木さん、おっかしいの。慌てちゃって」
「和谷?」
 弟弟子の揶揄いに冷たい目で返すと、和谷は慌てて真面目な顔を作った。
「あー、何でもありません」
 笑いが起きる部屋の中で、改めて白川さんに訊く。
「師匠にお願いってどうしたんですか?えーと、さん、が弟子入りしたいとか?」
「当たらずとも遠からずだねぇ。ちゃんがこっちの方で一人暮らしをすることになってね。家が近い僕が、お目付役を仰せ付かったんだ」
「お兄ちゃん!お目付役って言い方、聞こえが悪いでしょ」
 頬をわずかに染めて白川さんを“お兄ちゃん”と呼んで抗議する姿は可愛らしく、和谷からもさん可愛いと言われ、更に朱くなる姿も微笑ましい。
「ああ、ごめん。心配のあまりね。で、週に一度、報告がてら、この研究会が終わる頃、ここで待ち合わせすることにしたから、一応師匠にお断りをしないとと思ってね」
 立派な大人に見える彼女に週一回の報告が必要だなんて、きっと育ちが良いんだろう。両親が可愛くてしょうがないといったところか。まあ、それも分かる気がするけれど、と彼女の様子を見ながら頷く。そんなことにあまり構わない弟弟子の和谷は、すっかり彼女が気に入った様子でワクワクしながらさんに訊いた。
「じゃあ、毎週、さん、研究会に来るの?」
「うん、残業がない限りは。でも、お邪魔しないように終わる頃にロビーに着くようにするつもり。碁は全く分からないし」
「えー、そんな遠慮しなくても」
さんは会社員なんだよね?」
 そう言えば、今は平日の昼日中で、普通の勤め人がここに居られる時間ではない。率直な疑問を投げかけてみた。
「うん、会社員です」
「今日はちゃん、休みを取っているんだよね」
 白川さんの発言に、あ、と気が付いたような表情をして、彼女も慌てて補足する。
「そうなの。そうです。色々手続きとかあったから、有休もらったの。普段は会社で仕事中。こう見えても、バリバリのOLなんですよ」
 バリバリという表現と白川さん似の柔らかい雰囲気が合わなくて、思わず口許に笑みが浮かぶ。
「バリバリかどうかは知らないけど、ちゃん、冴木君より年上だから、勤続年数は長いよね」
「「え?」」
 白川さんの爆弾発言に、俺と彼女の声が重なった。
さんて年上?」
「冴木さんて、年下なの?」
 タイミングの良さに、互いに顔を合わせて笑った。
 さんが年上というのは、実際はそんなに意外でもない。だけど、白川さんを“お兄ちゃん”と呼ぶ従妹の姿や、彼女自身が持つ柔らかい印象は、彼女を若く見せている。
「二人とも気が合うみたいだね。冴木君は一人暮らしの先輩だし、色々と相談すると良いよ」
 隣でにこにこと白川さんが笑って言うのに、先程の失言の謝罪も込めて、いつでもどうぞと笑って答えた。
「有難う。今度、是非」
 にこりと笑って答える彼女に、和谷もここぞとばかりに口を出す。
「あ、俺も俺も。俺も一人暮らししてるんだ」
「和谷君のは一人暮らしって言ってもねぇ」
「そうそう。洗濯なんて全部、家に持って帰って洗ってもらってんだよ」
「和谷くん。それは一人暮らしって言えないんじゃ?」
 すっかりうち解けた雰囲気のさんの揶揄いに、和谷が赤くなりながら、白川さんと進藤を睨む。
「うー。それはそれ。これはこれ」
 くすくす笑うと和谷の顔を覗き込みながら、さんは何かあった時はお願いねと頼ると、一層、真っ赤になった和谷が、大きくうんと頷く。確かにさんは年上だと、俺は妙なところで納得した。

 この日は会の最後まで、部屋の離れたところで彼女は白川さんを待ち、終わってから師匠と白川さんと一緒に研究会を後にした。師匠もさんを気に入ったようで、白川さんも一安心だろう。俺は下二人を除いて、誰も居なくなった部屋を見回すと、和谷と進藤に声を掛けた。
「そっちは片付け終わったか?俺達もそろそろ帰ろう」
「うん。終わったよ」
「よし」
 部屋の鍵を掛けると、エレベーターに向かいながら和谷達に言った。
「鍵は俺が返しておくから、先に帰って良いよ」
「冴木さん、今日も車?」
「ご名答」
 ポケットから出した車のキィを振って見せる。
「じゃあ、お願いするね。進藤」
「うん、冴木さん、ありがとー。お先に」
「お疲れ」
 若者二人は、階段を元気良く降りていく。エレベーターに乗って一階に下りた頃には、二人の姿はもう見えなくなっていた。受付に鍵を返すと、近くの駐車場に向かう。
 棋院は駅が近くて便が良いけれど、少しくらい時間がかかっても、車の有り難さには敵わない。前に車で来る理由を問われた時にそう答えたら、白川さんには冴木君は車が好きなんだね、と返されてしまったが。確かに、今時こんなに手の掛かるのに乗っているのは車好きしかいないだろう。
 愛車に乗って家へと走らせた頃には、今日の珍客のことは棋譜の後ろへとしまわれていた。




「−−冴木、くん?」
 指導碁の帰りで珍しく最寄りの駅に降り立つと、改札の外で自信なさそうな声に呼びかけられた。声のした方に視線を向けると、そこには先日の白川さんの従妹がいた。きっちりと綺麗な色のスーツを身につけて、会社帰りの格好で立っている。
「えーと、さん?」
「あー、よかった!人違いだったらどうしようかと思ったの」
 覚えて貰ってるかも不安だったし、と明るく続ける彼女に、笑みを誘われる。
さんぐらい可愛い人だったら、誰でも一回で覚えますよ」
「あら。冴木くんて見かけ通りに口が上手なのね」
 にっこり笑ってさらりと返す彼女は、きっと会社でも人気があるだろう。楚々とした見かけによらず話しやすく、苦笑しながら彼女の傍に足を向けた。
「見かけ通りって何ですか?」
「だって、冴木くん、良い男だから」
 小首を傾げ、何気なく言い放つ彼女に、脱帽する。
「−−有難うございます」
「こちらこそ」
 彼女はにっこりと擬音が付きそうな笑みを再び浮かべると、指を頬にあて考える風を作った。
「今からこのあたりで仕事なの?夜遅くまで大変ねぇ」
「いや、いま終わって帰るところですよ。家がこの近くなんです」
 改札の周辺は、家路を辿る人達で賑わっている。普段はあまり利用しないが、駅が近いのがいま居るマンションの売りだ。
「あら、奇遇。私の家も近くなのよ」
「そうなんですか。俺はこの道まっすぐ行ったところです」
「じゃあ、ご近所さんかも。私も同じ道だわ」
「それでしたら、家まで送りますよ。これも何かの縁だし」
 ここまで聞いて一人で帰す訳にはいかないだろう。エスコートを申し出るとすぐさま返事が返ってきた。
「嬉しい。ついでに、この近くで安くて良い物売っているスーパーとか教えて貰えると助かるんだけど」
「いいですよ。引っ越してきたばかりじゃ、そういうところ判らないですよね」
「そうなのよ。まだご近所探索も済んでなくて、色々不便だわ」
 本当に不満そうに言うから、思わず吹き出しかけて、慌てて口許を手で隠した。
「なに?冴木くん」
「いえ。ゴミ出しの日とか覚えました?」
「あー、まだ。今日もうっかり燃えないゴミ、出しそびれちゃったわ」
 眉を顰めて溜め息を吐く、表情いっぱいの姿に、俺は今度こそ笑ってしまった。はきはきして物怖じしなくて、研究会の時とまるで違う雰囲気だ。白川さんに似ているのは黙っている時の印象だけのようだ。
「冴木くん?」
 上目遣いで咎める視線に、目線で謝ると、にっこりと先程の彼女の笑みに対抗する笑みを浮かべた。
「済みません。あまりにさんが可愛くて。行きましょうか」
 誤魔化されるのを厭うように少し膨れてから、彼女は口許で小さく笑った。
「うん、よろしく−−




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出会った冴木さんとヒロイン。切っ掛けに、偶然。次は必然になるのでしょうか。
タイトル詐欺のように、甘さ控えめになりそうですけれど、よければ、また覗いてやって下さい。                       20031201

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