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幸福論改訂  +++++ 12
 棋譜を並べ終わった時に、喉の渇きに気が付いた。壁時計に目をやると、日付が変わる間際だった。流石にぶっ続けで四時間も碁盤に向かっていると、身体の節々が固まっている。伸びをしたら、肩が鳴った。立ち上がってキッチンに向かうと冷蔵庫から缶ビールを取り出し、そのままプルトップを開けて口を付ける。喉を流れる冷たさが気持ち良かった。
 ビールは喉越しで飲むものだと教わったのは何時だっただろう。それまで苦みばかり舌に感じて好きではなかったビールが美味しく感じるようになったのは、あれは暑い真夏だった気がする。喉がからからに渇いて、差し出された冷えたビールを呷るように飲んだ時、こんなに美味しいものだったのかと思った。そのあと一時期、味やメーカに拘って色々研究したこともあった。今はその時の名残を惰性のように選んでいるだけで、情熱もどこかに薄れている。
 熱は冷めるものだ。それは充分に分かっている。冷めないものは無い。だけど、それならこの熱が何時冷めるのか教えて欲しい。この遣る瀬ない想いをあとどれだけ抱いていればいいのか。
 切にそう思うのに、まだこの想いが鮮やかなことが嬉しくてならない。彼女を思って痛む胸に、まだ好きなのだと認識出来ることが救いに思える。いつかこの胸が痛まなくなったら、苦しさから解放されたことにほっとすると同時に、消えない疵が残るだろう。
 それぐらいに、彼女を好きだった。
 もう過去形にしないといけない現実が、ただ痛かった−−。


「−−冴木。ここのところ調子良いな」
「お陰様で」
 碁盤を取り囲んでの検討が終わったところで、森下師匠がふと思い付いたように口にした。突然、振られた話に驚いて、碁石を片付けていた手が止まる。
「このまま調子を崩さず行けよ。そして塔矢門下より先に昇段だぞ」
「あはは。努力します」
「笑いごとじゃないぞ、おい」
 いつもの口癖が出て、苦笑を浮かべつつ、頭を下げる。それに頷くように息を吐くと、師匠は白川さんに向き直った。
「それに比べ、白川。お前、どうした?」
「済みません。でも、そろそろ復調すると思いますので」
「そうか?なら良いが、あまり無理はするなよ」
「はい。有難うございます」
 師匠は軽口のように触れたが、実際はきちんと目を配っての言葉だと、ここに居る門下はみんな知っている。だからこそ、その言葉は嬉しいし、痛いものなのだ。
 実際、面白いほど白星が続くので、自分でも驚いていた。余計なことを考えないよう、集中して碁盤に向かっているのが良いのだろう。禍福が糾っている様に、心情は苦いが、他人事のように世の中は上手くできているものだと感心する。
 そんな自分に比べ、兄弟子はどうしたのかと心配しながらも、その向こうに彼女の影を探してしまう自分が居るのに気が付きながら、和谷と話す白川さんの穏やかな横顔を見るともなしに視界に入れた。

 研究会の後の片付けを、進藤が休みなこともあって、居残って手伝ってやりながら、二人だとやはり少しばかり手間が掛かるものだと再認識する。
「−−でもホント、最近、冴木さん調子いいよなぁ」
「そうだな。和谷はトントンだな」
 和谷が立ち動く雑然とした空気に負けない音量で話しかけてくる。
「うー。オレだって、ちょっと前までは良かったんだぜ」
「お前は波に乗ると強いからな。まあ、次の波が来るまで何とか食いつなぐんだな」
「判ってんだけどなぁ。ねぇねぇ、最近の冴木さんの快進撃の秘訣は?」
「そんなものないって。毎日、真面目に脇目も振らずに勉強してると、こうなる」
「信じられねぇー」
 心底、疑わしいという顔をされ、苦笑するしかない。弟弟子のこういう真っ直ぐなところは可愛いのだが、もう少し遠慮や社交辞令も覚えた方が良いんではないかと兄弟子としては心配にもなる。
「失礼な奴だなぁ」
「だって、冴木さんがだろ?」
「お前なぁ」
 最後の座布団を隅に積み上げると、和谷へと踵を返し、額にデコピンをしてやった。
「イテっ」
 額を両手で押さえる和谷を腕を組んで上から見下ろす。
「ひどいよ、冴木さん」
「俺の絶好調が移るように、おまじないだよ」
「嘘だっ」
「あはは、嘘。嘘だけど、大丈夫。明日は白星、掴まえられるって」
「ホントっ!?」
 一転して明るい表情になる様に笑わずにはいられない。
「本当、本当。だから頑張れよ」
「うん!」
 こんな根拠のない太鼓判でも、その気に出来、上機嫌になる弟弟子は相変わらずだ。
「久々にお前一人だし、車で送ってやろうか?」
「やったー!有難う、冴木さん」
「どういたしまして」
 元気な和谷といると、こっちにまで元気が移ってくる気がして、温かい気持ちになる。彼女もそうだったのかもしれないと、ちらりと思考が過ぎった。

 ビートルの助手席に和谷を乗せ、走り出そうかという時に、タイミング良く携帯が震えた。液晶画面に表示されているのは同期の岡田の名前だ。
「ちょっと良いか?」
 そのまま留守録に回しても良かったが、後から掛け直すのも手間で、携帯を指差して和谷に断りを入れると、携帯の通話ボタンを押す。
「はい、冴木です」
『あ、俺。岡田。今週の金曜の夜、お前、空いていない?』
 電話の向こうの声は隣りの和谷にも聞こえそうなほど大きく、耳を離しながら慌てて手探りで音量を落とす。
「空いてないこともないけど、なに?飲み会?」
 岡田からのこういう電話は九十パーセント飲みの話だ。
『そう。合コン。お前、いま彼女いないし、ちょうど良いだろ?』
「ああ、それなら悪い。パス」
『え?もう彼女出来たのか?!』
 岡田の悪気のないストレートな言葉に苦笑する。此奴も和谷と同じタイプだ。
「出来てないって。ちょっと暫く、そういうのは控えようと思ってね」
 今の自分では行っても楽しめないいし、周りにも迷惑を掛けそうだ。
『ふーん……。まあ、色々あるからな。了解。また声掛けるよ』
「ん、Thank you」
 深くは突っ込んでこない岡田を有難く思いながら、通話を切った。車を走らせ、幹線道路に出た頃、和谷がぽそりと口を開いた。
「−−冴木さん、本当に真面目にしてるんだ」
「和谷。お前、俺を何だと思ってんだよ」
「だってさ、冴木さん、いつも碁もプライベートも両立させて、スマートにこなしてるからさぁ」
「そんな訳ないだろ。まあ、お前より少しは器用かもしれないが、同じだぞ」
 ちらりと和谷を横目で見ると、真剣な表情で目の前を見ている。此奴も何か思うものがあるのだと、心の中で苦笑いに似た溜息を浮かべた。
「同じかなぁ」
「同じだって。後は人生経験だな」
「うー、冴木さんが俺ぐらいの時にはもう、今みたいだったぜ」
「それはお前の記憶が改竄されてるんだって。それか刷り込みだな。兄弟子は格好良いと」
「そんなのないって!」
「あはは」
 ムキになって言い募る和谷の頭をぽんぽんと片手で叩くと、こういう時に誰もが呟く名言を教えてやった。
「人間、自分がなれる人間にしかなれないさ。和谷が俺になれないように、俺も和谷にはなれないってことだ」
「うん……」
 その言葉に何を思ったのか知らないが、和谷はそのまま車がアパートに着くまで口を噤んだ。
 そして俺は、彼女の傍らに立つ人間になれなかった自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返し、頭の中で再生していた。





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表面上、前と変わらず、淡々と過ごす冴木さん。今回少しも良い目を見せてあげられず…。次も無理そうですけど(汗)、でもいつか必ず。20040901

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