所在不明な理由 +++++ 9 | |
† 待ち合わせの時間まで、あと十分。駅の改札をくぐりながら、腕時計を確かめる。話題のロードショー初日の初回は、いくらなんでも大変だろうと、二回目を選んだ。それでも上映開始より一時間も早く約束をして、改札近くで待ち合わせた。ぐるりと見回してもさんの姿は見えない。適当な場所を確保して、彼女が来るのを心待ちにする。 天気は上々。こんな日のデートの約束は気分も上々。気掛かりなのは、先週逢った時のさんの様子だった。喫茶店のテーブルの上に置かれていたのは何時もの紅茶ではなくて、甘いココア。目の下にうっすらと隈まで作っていた。傍目には何時もと変わりなかったけれど、気を付けていると、時々何か考えるように口を噤むことがあった。 何か悩んでいるなら、話して欲しいと思うのは、踏み込みすぎだろうか?力にはなれないかもしれないけれど、聞くだけなら出来るから。 ああ、そうじゃない。少しでも彼女のことが知りたくて、頼って欲しくて、彼女に必要とされたいのだ。顔を伏せて苦笑する。彼女を楽にしてあげたいんじゃなくて、弱っているところにつけ込むようにして、彼女の中で自分の位置を確保したいだなんて、卑しいにもほどがある。そうまでしても彼女が欲しいらしいと、他人事のように自嘲した。 さん。どうやったら手に入る?小さく胸の中で呟いた。 「−−冴木君、お待たせ」 目の前に現れたさんは表情が隠れるほどの深い帽子をかぶり、掠れた声をしていた。 「さん?」 「うん。取り敢えず、映画館に向かおうか?」 「さん。ちょっと待って」 雑踏の中、逢うなり映画館に向かって踵を返そうとしたさんの腕を取って、振り向かせる。 「どうしたの?さん」 びくりと反応はしたけれど、俺を見ないで顔を俯かせたままのさんに、なるべく柔らかい声を聞かせる。 「どうしたって?」 小さな掠れた声であくまで誤魔化そうとする彼女に、言葉を重ねた。 「どうしたの?その声。何で俺を見ないの?」 「冴木君……。映画、始まっちゃう」 「大丈夫。次がダメでも、その次もあるし、映画なんかより、さんの方が大事」 「さえきくん……」 手の中のさんから力が抜けたのを確認すると、人の流れの邪魔にならないよう、そっと脇にさんを引き寄せた。顔を上げて、とさんにお願いしても、小さく頭が横に振られるだけだった。初めて見る彼女のその頑是ない様子が愛しくてならない。 「じゃあ、ちょっと歩こうか」 「さ、冴木君っ……」 するりと彼女の右手を取ると、映画館とは反対方向に歩き出した。繋いだ手は冷たくひんやりとしてはいたが、嫌がる感じはなくてほっとする。顔も見たくないくらい嫌われてる訳ではないらしい。目を合わせてくれないのは顔を見せたくないからだろうか。痛々しい声は喉を痛めたものではなく、嗄れて掠れたもので、何があったのか心配になる。 人波を器用に避けながら、ただ黙々と歩いた。さんも何も言わずに俺の隣を歩いた。繋いでいる指先の温度が彼女に移った頃、緑の公園が見えてきた。入口に据えられている自動販売機の前で止まり、不承不承、さんの右手を離す。温もりが消えた手のひらに感じた喪失感を、振り切るように一度握りしめ、缶を二本買った。紅茶と珈琲と一本ずつ。 「あ……冴木君」 振り向くと、さんがバックから財布を取り出そうとしている。 「こんなところまで連れてきたお詫び。奢られてね、さん」 傍らに戻ると片手で缶を二本持ち、残った片手でバックからさんの手を離させ、再び握る。 「そんな言い方されると……」 「断れない?うん、断られないようにしているからね」 帽子の下から見えるさんの口許がキュッと結ばれたのを見てから、公園の中へと手を引いた。週末でもこんなところまで来る物好きは少ないらしく、ちらほらとしか人影が見えない。奥まったベンチを選ぶと彼女の手を解放した。 「座ろう」 「……うん」 腰を下ろした彼女に、紅茶の缶を渡す。 「有難う」 僅かに上げられた顔に、ほんの少し、安堵して、彼女の隣りに俺も座った。プルタブを開け、缶に口を付ける。視線を遠くへ投げると、公園の緑の向こうに青い空が見えた。 「……良い天気だね」 「うん。行楽日和ね、気持ち良い」 声は掠れてはいるけれど、もういつものさんの口調でほっとすると同時に少しばかり残念な気もする。 「それは良かった」 「……ごめんなさい。こんな状態で来るべきじゃなかったわよね。でも、どうせ映画で泣いたら判らないかな、って思って」 冴木君と映画が観たかったから、さんがぽつりと呟いた。 「さん、泣いてたの?」 「……久し振りに、大泣き」 手に持っていた紅茶の缶を横に置くと、さんは帽子に手を掛け、一瞬迷うように止めてから、それを取った。目許まで赤くし、お化粧の上からでも隈が出来ているのが判る。涙もろいけど、普段は意固地なくらい涙を見せないさんをここまで泣かせたものに憤りが止まらない。俺だったら、絶対にこんな風に泣かせない。息巻く感情を押し殺して、何気ない素振りでさんに問い掛けた。 「……どうしたの?」 「うん……」 逡巡して何度か口を開いては閉ざすさんが、話してくれるのを静かに待つ。 「−−あのね。うん。彼とね、別れたの」 掠れた声でさんはそう言った。映画の後の泣き顔と違って痛々しい風情だったけれど、彼女の表情は穏やかで、そこには何の感情も見えなくて、ただ事実だけがあった。 「さん……」 どうしてとか、好きだとか、胸の中を色んな思いが渦巻いて、落ち着くように一つ呼吸をしたけれど、結局、彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。何を言ったらいい良いか、分からず、それを見透かすように、何も言わないでね、と彼女は風に乗せるように口にした。 「落ち込んではいるけれど、もう整理は付いてるから出来れば気にしないで」 この有様はその後始末なのと、さんはそう言って、ベンチから立ち上がった。二、三歩、歩いてから振り向いて、帽子を再び被った。今度は表情を隠したりしなかったけれど、どこか無理をしているように見えてならなかった。この三歩の距離を詰めても良いだろうか? 「折角、ここに居るんだから慰めることくらいさせて。さんが一人でそんな風に泣いてるなんて心配で堪らないから」 「有難う。うん。でも、こうして冴木君に隣にいてもらっているだけで、充分、慰めてもらってるから大丈夫」 小さく口許で笑った。その笑みがあまりにも薄くて、手を伸ばしたくなる。 「さん」 「……でも一つだけ」 そっと視線をずらして、一転して小さく続けた。口にしてしまったことを怖がるように、早口で音にする。 「−−今だけ、お願いして良い?」 「一つだけって言わずに、幾つでも」 初めて聞く、さんのお願い。彼女が望むなら何だって聞いてあげたい。 「ううん、一つだけ、今だけ」 なのに最初で最後のように言う。どうしたら頼ってくれる?もどかしい思いで彼女がそれを口にするのを待った。 「うん。……もう一度、手を繋いでくれる?」 僅かに顔を俯かせて、ひっそりと申し出た。 俺は何も言えずに立ち上がって、三歩の距離を縮めた。目の前に立つさんの左手を取ると引き寄せて、彼女をそっと胸の中に抱きとめる。 「……っ、冴木君」 驚いて身体を硬くし、顔を上げようとするさんを押し止めて、心の内をそっと伝える。 「お願いだから、もう少し頼ってよ」 小さく身体を震わせ、その言葉を聞くと、さんは大人しく腕の中に身を置いてくれた。それから暫くしてから、硬かった身体から力が抜けて俺に身体を預けてくれた。 それが愛しくて、手放したくなくて−−。 「−−好きだ」 腕の中でピクリとさんが動いて、逃げてしまうような不安に腕に力を込めずにいられなかった。 「こんな時に言うのは卑怯だってよく分かっているけど、でもこんな時でもなきゃ言えないから−−」 腕の中で強張って小さくなる身体。判っていたけど、それが辛くて、それでももう引き返せなくて、告げた。 「俺はさんが好きです」 † 耳を疑った。背にまわされた腕を疑って、身体に感じる体温を疑った。それから同情だと気が付いて、慰めだと解って、胸が痛かった。その言葉は酷だと口唇を噛んだ。ここで上手く返せなかったら全部ばれてしまいそうで、必死になって頭を巡らせるけど、痛む喉に空気も絡み、なかなか言葉が出ない。 「……うん。有難う。でも、そういう言葉は彼女に言ってあげないと」 結局、口にした言葉はあまりにもベタなもので、情けなさに再び口唇を噛み締めると、もどかしそうに冴木君の腕に力が入って驚く。 「聞いて、さん。さんにとっては、俺は年下の友人でしかないだろうけど、俺にとってはさんは大事な人だから。だから、少しはそういう目で見て」 再度、耳を疑う。聞こえてきた言葉は幻聴ではなく、冴木君の声は真剣だった。真剣で泣きたくなって、でも信じられなかった。信じたくて信じたくて、それに応えたくて、信じられなくて。ようやくカラカラの声で絞り出した。 「……うそ、言わないで」 「嘘じゃないから。今のさんにこんなこと言うべきじゃないって……」 「違うの!そうじゃなくて……」 違う。冴木君は誤解している。私が泣いたのは彼の為ではなくて−−。 「さん……?」 もし。もしも、冴木君の言葉が本当だったとしても、冴木君が好きで彼と別れた私を知ったらきっと気持ちが冷める。友人にも、もうなれないだろうけど、でも黙っている方法が解らなかった。自分の気持ちを誤魔化さずに、だけどずっと言わずに隣りにいる覚悟を決めたのに、それも駄目になってしまうけど、でも嘘を吐くことは出来なかった。 そっと冴木君の胸を押すと、ほんの少しだけ空間ができた。その空間に泣きたくなりながら顔を上げると、冴木君の切ないような視線と合った。 「冴木君が好き。もう前から好きで……。だから彼と別れたの」 驚いた色が冴木君の目に浮かんで、それが嫌悪に変わるのを見てたくなくて、俯いた。だから、冴木君に好かれるような人間じゃないの。そう続けて、自分からこの暖かい腕の中から出ようとした時、突然、きつく抱き締められた。 「さん」 「冴木君、離して」 これ以上は幾らなんでも耐えられないかもしれないから。みっともない姿を見せずにいる自信がないから。背に感じる冴木君の手が胸に痛かった。 「どうして?俺がさんを好きで、さんが俺を好きで、どうして離さないといけないの?」 「だって、私は−−」 「俺はどうしたらさんが彼氏を捨てて、俺に振り向いてくれるか、そんなことばかり考えていたけど、さんは俺のこと嫌いになる?」 冴木君の言葉に驚いて、顔を上げる。彼の目に負の感情は見付けられなくて、惑う。好きで好きでどうしたら良いのか分からない位なのに、嫌いになんかなれる訳ない。その答えは私だけのものではないのだろうか。 「なるわけ、ない」 「うん。俺もさんを嫌いにならないよ。やっとこうして抱き締められるのに、離さないよ」 優しい笑みと共に、私に言葉をくれる。本当にこのまま彼の腕の中にいて良いのだろうか?本当に彼のことを好きだと口にしても良いのだろうか? 「冴木君……」 「ね、もう一度、好きって言って」 そうして笑って?照れたように言う彼に、もう思い悩む余裕などなくなって、答えなんて、理由なんてどうでもよくて。 「−−好き」 言葉と共に作った笑顔は、泣き笑いに近くて少しも綺麗に笑えなかったけれど、冴木君は嬉しそうに笑ってくれた。 +++end+++ |
やっと終わりました。 終わったのですが、物足りない気もしないではなく…。でも、今となってはどうしようもないので、物足りない分は、短編で補充させて頂こうかと思っています。 あ、今更ですが、短編の「キスの理由」はこの二人のこの後です。 最後までお付き合い有難うございます。少しでも楽しんで頂けたなら、幸いです。 20031101 |