やじろべえ 〜静止状態に近付く為の揺れ〜 +++++ 3 | |
広いダイニングテーブルにテキストを広げ、イヤホンで聴いているCDに集中している光二を、は見るともなく眺めていたが、当分、 今のセクションが終わらなさそうで、意識を背後の窓の向こうに逸らした。切り取られた景色には空が見えた。天を覆う雲が速い速さで流れ去っていく。上空では風が強いのだろう。どこからともなく涌き出た雲が、形作ることを許されず、曇天を煙のように流されて、渦巻く。 ここは空が近くて、息がしやすい。 手許の書類に目を落として、それからはキッチンへと立ち上がった。 濃い緑茶を二人分入れて戻ると、は何も言わず、そっと光二の前に彼の湯呑みを置いた。ちらりと光二は視線を上げ、片手を上げて感謝の意を示すと、その手をそのまま、湯呑みへと伸ばした。両手で口許へ持っていく仕種が可愛くて、は小さく笑むと、光二の髪をくしゃりと撫でた。ストレートの髪はさらさらと手触りが良い。アッシュグレイに染めているのに、痛んでいる様子もなく、少しばかり羨ましく思いながら、指を離した。 「−−なに?」 CDを止め、イヤホンを外しながら、光二が尋ねる。 「ごめん。光二くんが可愛かったから」 「二十代の若者に言う言葉じゃないんじゃない?」 「幾つになったって、光二くんが私の教え子だったことに変わりはないから良いのよ」 「教え子ねぇ……」 「まあ、公的には一度も教えてないけど」 「先生」 「……気持ち悪い」 「あはは、先生にならなくて正解だな」 「放っといて」 肩を竦めて、立ったまま、お茶を一口飲んだ。ちょうど良い加減に冷めていて美味しい。下にある光二の顔を見て、最初もこんな風だったな、とは思った。 放課後の人影のない教室を見回りながら、懐かしいような、寂しいような気持ちをは胸の中で弄んでいた。通り過ぎた中学という時間。あの時にしか過ごせない時間を確かに過ごした。大切な胸の中のブリキの箱に仕舞っておきたい思い出。いまはまだ入っていることだけ確認出来れば良い、懐かしい思い出。そして決して戻ることは出来なくて寂しい。 もし同じ時間を過ごすことが出来たとしても、もう自分はあの頃の自分ではないからあの時のように過ごすことは出来ない。それが悲しいのかよく分からなくて、曖昧な笑みを浮かべながら、は一つ一つ教室を回っていた。 最後の二年生のクラスのドアを開けると、窓から射し込む夕日の中に一人の男子生徒がいた。実習の受け持ちクラスではないので名前は判らないが、整った顔立ちは目を引き、何とはなしに覚えていた。 「−−もうすぐ下校時刻よ」 声を掛けながら近付くと、席に座った彼は机の上に英語の教科書を広げていた。 「先生」 見上げてくる顔は朱い陽差しに縁取られ、どんな表情を浮かべているのか見て取れない。 「なに?」 「ここの訳はどうすれば良いんですか?」 指差された箇所を覗き込み、授業の先のセクションであることに驚く。 「ここのクラスはもうこんな先まで進んでいるの?」 「いえ、自習です」 「自習って……」 「学校にいるうちに学校の勉強は終わらせておくことにしてるので、進めるところまで進んでおくつもりなんです」 再来週から忙しくなるし、との呟きを耳にして、何が忙しいのかと胸の内で首を傾げる。 「そうなの……。えーと、ここは『窓から漏れる明かりとは裏腹に家の中には人の気配がなかった』という感じかしら」 「流石、先生。有難うございます」 さらさらと綺麗な字でノートに訳を書き、彼は顔を上げた。 「どういたしまして。でも、もう帰らないと駄目よ」 「予定のところまでは進んだので、帰ります」 その言葉どおり、教科書とノートを閉じると、机の上を片付け始めた。 「そう。じゃあ、気を付けて帰ってね」 後ろのドアへ向かって踵を返した時、声がした。振り返ると彼と目が合った。 「−−冴木です」 彼らしい名前だと何の理由もなく思った。 「冴木くん、また明日」 受け持ちの授業がない彼とは会わないだろうに、するりと言葉は口から滑り出た。 「また明日」 にこりと笑った彼の顔が夕陽に映えて見えた−−。 翌々日の見回りの日、やはり二年生の教室に彼は居た。 ガラリとドアを開けた目に入った後ろ姿で、すぐに冴木だと分かった。 「−−冴木くん、今日も自習?」 ゆっくりと近付きながら、彼に声を掛ける。 「そうです」 机の上に視線を落としたまま、返ってくる声に、後ろから教科書を覗き込んだ。今日も教科書は英語で、一昨日よりも先に進んでいた。 「あー、判らねぇ」 乱暴にそう言い放つと、シャーペンを投げ出し、を振り返った。 「先生、教えて」 教育実習生として、生徒に訳を教えるのはどうかと思ったが、冴木が勉強しているのは実習のカリキュラムよりも先のセクションでが教えることは絶対にないのだとあっさり判断し、良いわよ、とは答えた。 それが切っ掛けで、教育実習が終わった後も家庭教師の真似事をし、光二がプロ棋士を目指していることを知り、は教師になるのを止めた。本当にやりたいことは教師ではないと、光二を見ていて気が付いた。それこそギリギリまで就職活動をし、英語を使う仕事として外資系の会社に就いた。 そういう意味では光二がの人生を変えたと言っても大袈裟ではない。そして変えたのはそれだけではなく−−。 |
本当に途中ですが、今回はここまでで(汗)。 20050901 |