ありふれた日常に至る一つの方法 | |
二目半勝ちで辛くも白星を掴んだ盤上を眺め、冴木は目前の相手に問い掛けた。 「検討しますか?」 「うん。あーあ、まいったなぁ。絶対いけると思ったのに。まあ、この前はオレが勝ったから、仕方ないかぁ」 表情豊かに負けた悔しさとすばやしい思考の切り替えを見せた院生時代からの馴染みの相手に、笑みを零しながら冴木は碁石を片付け始めた。 「でも、次も俺が勝ちますよ」 「冴木くん、人間、殊勝さが大事だよ」 異議を申し立てながらも、芦原の手は碁盤の片付けに参加する。別室での検討に早く入りたいのは二人とも同じようだ。 「あなたにそれを言われたくありません、芦原さん」 「ひどいなぁ、冴木くんは」 最後の碁石を碁笥に戻すと、ふくれたように芦原は冴木の顔を見る。そんな芦原の表情は昔から変わっておらず、冴木は笑いたくなるのを堪えた。 「それも芦原さんから言われたくありません。それより別室に行きましょう」 流石に小声とはいえ、いつまでも対局場で話している訳にはいかない。それも子供の喧嘩のような内容だ。そう思った時に、いいタイミングで芦原の拗ねた言葉が耳に入る。 「ちゃんに言いつけるからね」 その時、吹き出すのを堪えることの出来た自分は褒めるに値するだろう……。 冴木と芦原は院生時代からの顔見知りだ。内情は友人なのだが、師事する師匠の関係と、仮にも互いにプロ棋士なのだから友人と称するのは憚られ、ライバルというには二人とも目指すものは高く、どちらかと言えば同志であり、畢竟『顔見知り』に落ち着いている。 とは言え、それだけ長い間、肩を並べて歩いてきているのだから、お互いを結構、知っている。飲みに行く回数も気心知れた気安さから他の囲碁関係の友人よりも多い。 そして、まあなんと言うなれば、冴木が最愛の彼女−−を手に入れる一部始終、とまではいかないが、大方を知っているのは芦原だけだった。芦原が居なければ、もしかして彼女を手に入れられなかったかもしれない。その点では冴木は芦原に多大な感謝をしている。 「−−そう言えば、ちゃん元気?」 別室での検討も終わり、窓の向こうの暮れた空を背に、帰り支度をしていた冴木に、芦原がのほほんとした声を掛ける。 「元気ですよ。今日、あなたとの対局だって言ったら、にも芦原さんの健康状態を聞かれました」 「あはは。以心伝心だ」 楽しそうに笑う芦原に、それを言うなら以心伝心ではなく一心同体だと指摘しようとしたが、後に続く言葉が推測できて、冴木は止めた。その代わりに、今から会うの希望を口にする。 「芦原さんは今日これから予定ありますか?」 「ないけど。え、良いの?」 察しの良い芦原は、夕食の誘いに顔を嬉しそうに綻ばせながら、それでも律儀に訊いてくる。 「勿論。芦原さんさえ良ければ、どうぞ。のたってのお願いですから」 「嬉しいなぁ。ちゃんと会うのはいつ振りだろう?二ヶ月ぶりかなー」 浮かれる芦原を横目に、同じことを彼女も言っていたと告げるのは止めることにした。 待ち合わせのカフェに芦原を伴って冴木が足を踏み入れた時には、はもう来ていた。テーブルいっぱいに紙を広げて、何やらペンを走らせている彼女を遠くに見付けると、芦原は冴木に小声で囁いた。 「後ろから行って驚かせたら、どうなるかなぁ」 「知りませんよ。やってみたらどうです?」 院生の時に、一般対局室や受付に座っていたに対し、よくやっていた悪戯を思い出したのか、芦原が嬉々とした表情で冴木に提案してきた。形は推測の問い掛けでも、片棒を担げと言う本心は長年の付き合いで明白だ。冴木は、一度や二度ではきかない、巻き込まれてとばっちりを受けた時のことを思い返しながら、きっぱりとやるなら一人でやるようにと断る。 「えー、冴木くんしたくない?」 「中学生じゃあるまいし、そんなことをこの年になってもやろうとするのは芦原さんくらいです」 「中学の時にやったから、今のちゃんにもやりたいって思うんじゃん」 「だから止めませんて。ただし、苦情は一人で受け止めて下さいよ」 「俺と冴木くんの仲じゃない」 「だから遠慮してるんです」 「本当に友達甲斐ないったら」 そう文句を言いながら、遠回りをして気付かれないようにの後ろへと回る芦原を見て、冴木はいつまで経っても変わらない悪友の姿に嘆息しつつ、被害を被らないようにそのままの場所で成り行きを見詰める。 ゆっくりと他人の素振りで彼女のすぐ背後まで近付き、驚かせようと手を肩口まで挙げた時、がふと後ろを振り返った。そこまで見て取ると、安心して冴木は二人の所へ歩いていく。相手がでも、いやだからこそ、保身は大切なことだと一人頷きながら。 「−−ズルイよ。ちゃん」 「ずるいのは弘幸くんでしょ?いい大人が女の子を驚かせようなんて、良い度胸じゃない?」 冴木の耳に、身勝手な抗議をする芦原と、子供を窘めるようなの会話が入ってくる。 「ちゃん、女の子っていう−−」 「芦原さん!」 芦原が何を言おうとしたのか悟って、冴木は慌てて飛びつくように彼の口を押さえた。勢いがつき、少々痛そうな音がしたがそれは芦原の自業自得、冴木は頓着しなかった。 「光二くん、お疲れさま」 突然現れた冴木に驚く風もなく、は冴木にくっきりとした魅力的な笑みを向けた。 「お疲れさま。もしかして残業入った?」 の手元の書類を目で示す。 「ううん。暇つぶし」 「なら、良かった」 冴木の手は暴れる芦原をものともせず彼の口許を覆ったままで、にこやかに二人で会話を続ける。 「ところで、そろそろ弘幸くん、窒息しそうよ」 「ああ、それは不味い」 の言葉に頷きながら冴木が芦原から手を離すと、芦原は咳き込みながらの隣りの席にへたり込んだ。 「ひっ、ひど……さえ……」 呼吸の合間に冴木に対する抗議をする為、余計に息が整うのに時間を要するのを芦原は判っているのだろうか。その間にはテーブルの上の書類を手早く纏め始めた。 「済みません、芦原さん。でも、俺としては芦原さんを救ったつもりだったんですけど」 建て前、申し訳なさを装って謝る冴木を疑いの目で芦原は見上げた。 「オレ、がなにを……」 途中で言葉が途切れたのは、自分が言い掛けた言葉が女性に対する禁忌の話題の一つ、年齢の話に触れようとしていたことを思い出し、言葉通り冴木に助けられたのだと芦原は気が付いたからに違いない。冴木がにっこり笑うのに、芦原は気まずげに視線を彷徨わせると、くしゃくしゃと頭を掻いてバツが悪そうな顔で、に顔を向けた。 「えーと、ちゃん。久しぶりー」 「はい、久し振り。初めから、こうすれば良かったのにね」 ようやく整った息で、何事もなかったように挨拶する芦原に、弘幸くんらしいと、は小さく昔と変わらない愛らしい表情で笑った。 久々の三人での夕食は多国籍料理店に決まり、テーブルいっぱいに頼んだお皿も粛々と片付けられていった。 冴木は隣りに座るのグラスが空きそうなのを見て、ドリンクメニューを手渡し、次は何を頼むか訊く。 冴木と一緒の時以外は、はアルコールをほとんど飲まない。対して、二人だけの時や、芦原のような気心の知れた友人が同席する席でなら、彼女は彼女なりのペースで杯を重ねる。そういう時、がアルコールを頼めば頼むほど、冴木は嬉しくなる。彼女の中で自分が特別だと位置づけられているのがよく分かるからだ。そして、大勢と一緒の時にノンアルコールしか頼まないを見るのが嬉しいのも、同じ理由からだ。 「−−んー、今度は杏酒にするわ」 「了解」 先程とは趣向を変えて杏酒をリクエストするに頷きながら、冴木の口許が少し緩む。それを見て、芦原が笑った。芦原ものこの癖を知って久しい。 「冴木くん、にやけてるよー」 「いけませんか?」 「いいけどね。いつになっても熱々だねぇ」 芦原の素直な感心とも、揶揄とも取れる言葉に、は真面目な顔で返す。 「弘幸くん、寂しいの?慰めてあげようか?」 「遠慮しておきます。オレだってまだ命は惜しいですから」 ちらりと冴木を見て、芦原は怖ろしいと首を盛大に横に振った。それは正しい判断で、たとえが言い出したことだとしても、冴木にはを一時貸し出しする気は、それが芦原相手でも、毛頭なかった。勿論、まかり間違ってそうなった場合、相手をただで済ます気もない。冴木は芦原に、にっこり笑って見せた。 「ああ、まだ理性はあったんですね。良かったですね、芦原さん」 「ほら、ちゃん。あまりオレを危ない目に遭わせないでよ」 震えてみせる芦原にが優しい声を聞かせる。 「大丈夫よ。骨は拾ってあげるから」 「嬉しくなーい」 そう声を上げてから芦原は表情を改めて、目の前のに顔を近付けた。その内密の話をする態勢に、もテーブルの上に身体を乗り出す。 「でもさぁ、実際のとこ、どうなの?ちゃん」 「どうって?」 「もう付き合いはじめてから十年以上経つ訳でしょ。一度くらい、別れたいとか思わなかったの?」 潜めていても、冴木に聞こえるよう調節された声は、先程の意趣返しだろう。冴木は軽く眉を顰めた。 「ああ。そうねぇ」 「そこで考えないように」 頬杖を付いて視線を遠くにやる彼女に、すかさず突っ込んだ冴木の顔を横からは覗き込むと、小さく笑った。それは花のような笑みで、冴木の鼓動が大きく脈打った。芦原の前だということも忘れて、彼女に手を伸ばしそうになる。 「……別れたいと思う暇がなかったかなぁ」 「それだけ毎日が刺激的だったと」 くるりと芦原に向き直ると表情は楽しそうに笑みを湛えたまま、は大袈裟に溜息を吐いた。 「というより、手が掛かって、手が掛かって」 「ー」 「あはは。高校生だもんねぇ」 「そう。高校生だったのよねぇ」 ふふふ、と笑って、が冴木と芦原の顔を悪戯っぽく見る。 「二人とも可愛かったわよ」 冴木と芦原は顔を見合わせて、互いに在りし日の相手を思い浮かべる。どこか息の合った所作に、可笑しそうに笑っては続けた。 「今でも可愛いけど」 「「どこが?!」」 二人、声を合わせて抗議をすると、そういうところが、と返ってくる。全くもってには敵わない。惚れた弱みに、過去を知られている弱み。年下の弱み。 「十年後も可愛くいてね」 何とも言えない表情で芦原と顔を見合わせた。 を家まで送る道すがら、冴木は先程の会話を思い出し、呟いた。 「−−十年後も俺のものでいてくれるってことだよな」 「なんのこと?光二くん」 うっすら潤んだ瞳と、ほんのり朱を掃いた頬が艶めかしい。 この表情を他人に見せたくなくて、十六の自分はに約束させたのだ。自分の居ないところでお酒を飲むなと。そんな要求を口にするなんて、本当にガキだったと今では思う。だけど、あの頃は世界全てを相手にしても良いくらい重要なことだったのだ。絶対に他の奴に見せたくなかった我が儘なガキの想い。 そして今更ながらにガキだった自分に感謝する。あの頃も今も想いは変わらないのに、今はそんな自分勝手な言い種が許されない大人になってしまったから、あの約束がなかったらいつもヤキモキさせられていただろう。ただでさえ、弱みばかりで頗る分は悪いのに。 「幸せにするから」 「どうしたの?酔ったの?」 突然の冴木の言葉に、可笑しそうに笑う。 幸せにするから、もっと自分のものになってと言ったら、冗談だと笑うだろうか、それとも頷いてくれるだろうか−−。 「うん、ちょっとね」 の居る日常。こんな幸せをくれた神様に感謝する。 |
こんな話でも大丈夫なのでしょうか?(汗) ドリーム小説から激しく離れている気がするのですが、大丈夫でしたでしょうか? 続きもこんな感じになっていく筈なので、ご注意下さい。合う合わないの激しい話ばかりで申し訳ない限りです…(謝)。 20040412 (0415訂正) |