ありふれた日常に至る二つの方法 | |
硝子戸を開けた窓から穏やかな風が入ってくる。午後の陽射しは南向きのこの部屋を窓辺から少しずつ柔らかく浸食していく。冴木はソファに凭れ掛かって視線を落としていた棋譜から目を上げて、光の勢力範囲がどこまで伸びるのか見定めようと、思惟を巡らせた。 このまま伸び続ければ、冴木の左半身が飲み込まれるのはそう遠くはないく、頭部も左側は容赦なく照らされ、右半身も大方はその侵略を受けるに違いない。助かるのは右側の身体の厚み分の陰くらいだろう。その部分がどの程度になるのか、そこが重要だった。 冴木はそっと首を巡らせ、自分の右肩に寄り掛かって寝ているの様子を確かめた。耳が拾う、すやすやと穏やかな寝息は、彼女の意識が眠りの海を深く彷徨っていることを冴木に知らせる。眠りを妨げないよう身動ぐことを自制している為、表情が確かめられないのが残念だが、おそらく寝室で見せるように稚い顔をしていることだろう。そう想像して、冴木は口許を綻ばせた。 僅かに首を傾け、頬を彼女の髪に触れさせると、仄かに体温が感じられた。こうやって眠りを預けてくれるのが無防備さが嬉しい。掛かる肩の重みも冴木にとっては愛しくてならない。 この彼女の眠りを妨げないよう、陽光を遮ることも何とか出来るだろうと、そう判断して、冴木は再び手許の棋譜に目を落とした。 そんな時間がどのくらい続いただろうか。突如、テーブルの上に投げ出していた冴木の携帯が鳴り出した。曲は煩いくらい賑やかなウィリアムテル序曲。この曲が演奏される相手は一人しかいない。 「……っ」 特別に何かある訳ではない為、着信を通常モードにしていたことに冴木は歯噛みした。携帯は手を伸ばして届く距離よりも遠く、止めるには立ち上がらなくてはならない。を動かしてまで冴木は電話に出るつもりはなかったが、幾ら音量が抑えられていても鳴り続けていれば、の覚醒に繋がりかねない。冴木は右肩を動かさないように注意しながら、左足をテーブルの上に伸ばした。引き寄せて、足許に落としてしまえば音を消す操作くらい何とかなるだろうと考えての行動だった。バランスを取りながら足を伸ばしていると、不意に肩が軽くなり、の不審そうな声が聞こえてくる。 「なに、してるの?」 「え、うわっ」 冴木が振り向くと、は身を起こし、ぼんやりと眠気の残る双眸で冴木の左足を見ている。そこまで見てとったかどうか、バランスを崩した冴木はソファの上で身体を滑らせた結果、の胸元へと頭を預ける形となった。 「光二くん……?」 くすりと笑う彼女の気配に小さく嘆息すると、冴木は彼女から身体を起こし、ついでに足も床に下ろすと、いまだ鳴り続けている携帯を手許に取った。 「……弘幸くんから?」 「らしい」 鳴り響くウィリアムテル序曲を芦原にぴったりの曲だと言って専用の着信音に設定したのはだった。このまま切ってしまおうかとも思ったが、相手が芦原だとにばれている以上、掛け直すよう言われるのは目に見えている。冴木としてはを起こした意趣返しをしたいところだが今回は仕方ない。嫌々ながらに冴木は通話キーを押した。 「−−はい」 『冴木くん、元気ー?いまいい?』 あっけらかんとした声が受話部分から聞こえてくる。その通りの良い声は傍にいるにも聞こえたらしく、可笑しそうにが笑みを零すのを見ながら、あれだけ長い間、鳴らしておいてどうして取り込み中だと認識してくれないのか、芦原の天然のような、造りのような性格を忌々しげに思う。 「あまり良くないですけど、良いですよ。どうしたんですか?」 『えー、よくないの?何で?あ、もしかして、ちゃんと一緒?』 冴木が仕事や邪魔されたくない時は必ず留守モードにしていることを知っている芦原は、留守録に切り替わらなかったのだから本当に重要なことではないと判断した上、取り敢えず有り得そうなことを口にした。 「そうです」 憮然として答える冴木に、芦原は楽しそうに言った。 『ちょうどいいや。オレも混ぜてよ』 「駄目です。何、言ってるんですか、あなたは」 「いいわよ」 言下に断った冴木だったが、隣りに座っているの口は了承の言葉を紡ぎ出す。芦原には聞こえていない筈だが、焦って冴木は彼女の名前を呼んだ。 「」 「良いじゃない、光二くん。久々に弘幸くんとも遊びたいな、私」 通話部分を押さえる冴木に、はにっこり笑って強請った。その笑みを見て、冴木は内心白旗を掲げながらも最後の抵抗を試みる。 「こないだ飲んだばかりだろ」 「あれはあれ、これはこれ。−−どこにいるの、弘幸くん。家にいらっしゃい」 途中から、は冴木の携帯を取り上げると、芦原相手に話し出した。右耳に携帯を当てたまま悪戯めいた表情を冴木に向ける彼女に、目で降参と伝えると、は嬉しそうに笑った。その可愛らしい様に、冴木の心臓がどくんと音を立てる。冴木はそっと右手を彼女の頬へと伸ばした。滑らかな頬の感触を掌全体で味わう。くすぐったそうにして視線で冴木に問い掛けながら、は会話を終わらせる言葉を口にした。 「うんうん。待ってる。じゃあね」 通話を切ろうと携帯を口許から離したの唇を、ついと冴木は自分のそれで塞いだ。 「んっ……」 慌てて冴木の胸を押し返そうと当てられた手を挟むようにして、左手での腰を引き寄せ、ぺろりと唇を舐めると冴木はの唇にバードキスを繰り返した。濡れた音が鼓膜を幾度も震わせ、次第にの手は冴木のシャツへと縋るように掴まる。その手から存在を忘れられた携帯が滑り落ちる。まだ芦原と電話が繋がっている可能性を冴木は頭の中で量ったが、聞こえていたら聞こえていたで構わないと身勝手な思考でそれ以上の推測を止め、腕の中のに意識を戻した。 この気持ちの良い午下がりにが寝ていたのは他でもない冴木の所為だった。冴木はいまだにを腕に抱くと抑えが効かない。十代の一年はそれは途轍もなく長く、手に入れるまでの意識上の時間の長さからか、を腕の中にすると、その幸せに理性が働かなくなるのだ。そうして明け方近くになってようやく眠りについたが午睡をしていても、それは仕方がないことと言えよう。責は全て自分にあると冴木は承知している。 だからこそ、こんな日は他人が居ての気が治まらない、好ましくない状況を避けているのだが、相手が芦原なら仕方がない。どんな手段を講じても、それはと芦原の双方からの働き掛けに無駄に終わるに違いないのだ。不承不承、募る種々の思いを冴木は飲み込み、了承した代償を心ゆくまでから貰うと、冴木はを解放した。 の潤んだ瞳と紅潮した頬に、朱く艶やかに濡れた唇。一度、冴木の胸に顔を埋め、上がった息を形ばかり整えると、はその瞳と唇で冴木に抗議した。 「−−莫迦」 「ん、俺も莫迦だと思う」 言い訳の言葉も探す必要もなく、本心からそう思った冴木は肯定した。 「でも、の所為だから−−」 真顔で続けた冴木の頬をの綺麗な指が抓った。 「お邪魔しまーす」 芦原が朗らかにリビングに入ってきたのをソファに座ったまま冴木はちらりと横目で見て、これ見よがしに溜息を吐いて見せた。 「一応、分かっているんですね」 「冴木くん、そんな厭そうな顔しないでよ」 「どんな顔してるの?光二くん」 芦原の後から戻ってきたが芦原の肩越しに冴木を見るのに、内密な話をするように芦原が屈んでに囁く。 「あんな顔。心狭いよね。冴木くんって」 「あら、そんなことないわよ。そう見えるのは、弘幸くんに対して光二くんが甘えてるからだから愛されてると思って許してあげて」 冴木を庇っているのか、貶めているのか分からない発言でもってが芦原に頼むのに、冴木は抗議した。 「、誤解を生むようなことは言わないように」 「そうかー。冴木くんの愛なんだ、これ」 「愛なのよ」 冴木の声を聞こえない振りでやり過ごす二人に処置無しと、冴木は傍観に徹することにした。そんな冴木を後目に、と芦原は盛り上がる。 「でも、もう少し、分かりやすく愛して欲しいなぁ」 「それはダメ。それは私だけの特権なんだから」 「あーあ。ご馳走様だ」 「うん。いま珈琲入れるから待ってて、光二くんは何にする?」 芦原に冴木の居るソファを示すと、は冴木にリクエストを訊く。先程まで飲んでいた緑茶をがまだ手許に残っている為、どうしても欲しい訳ではなかったが、芦原にだけの入れた珈琲を飲ますのも少々悔しく、冴木は珈琲をリクエストした。 「芦原さんと一緒で良いよ」 「了解」 小さく口許に笑みを刻んだは、そんな冴木の心の内を見て取ったようで、冴木は肩を竦めた。 「お湯を沸かしてくるわね」 は楽しそうにそう言い残してキッチンに姿を消した。 「そうやって二人で会話しないように」 「招かれざる客なんですから、これくらい我慢して下さい。それで、今日はどうしたんですか?」 向かいのソファに腰を下ろしながら溜息を吐いた芦原へあっさり冴木は返すと、電話をしてきた理由に触れる。ただ暇潰しをするだけならば、冴木達にはその方法は幾らでもある。芦原が会いたいと言うからには何かしら用があるのだ。 「うん、あのね。聞いてくれる?」 待ってましたとばかりに言葉を綴る芦原に苦笑しながら、冴木は続きを促した。 「聞いてますよ」 「好きな子が出来たんだ」 嬉しそうに顔を綻ばせて身を乗り出して報告する芦原に、冴木は反対に身を引いた。この種の話を芦原から聞くのは一度や二度ではない。この十年間、冴木は両の指では足らないくらいに聞いているが、いつだって長続きしたことがない。はしゃくだけはしゃいで、最後には落ち込む芦原にどれだけ世話を掛けさせられたか、記憶はまだ新しい。冴木が絶句したのも無理はなかった。 そんな冴木の代わりにキッチンから戻ってきたが楽しそうに会話に参加する。とてこのことは良く知っているだろうに、毎回毎回、それは楽しそうに芦原の惚気を聞く。 「本当?どんな子?」 「えへへ。オレより三つ下なんだけど、可愛くって優しくってね。オレが傘を忘れてスーツを濡らしてた時に、傘とハンカチを貸してくれたんだ。でね、『芦原さん』て可愛い声で名前を呼んでくれた時に、ああ、もう彼女しかいない、って分かったんだ」 目を輝かせて彼女の話をする芦原に冴木はそっと横を向いて嘆息した。そんなに好きになれるのにどうしてすぐに別れてしまうのか、がいる冴木には解りかねた。 「うんうん。それで脈は有りそうなの?」 「どうだろう?」 一転して自信のない表情を見せる芦原に、は芦原の隣りに座り直して、そっと手を伸ばし、その髪をくしゃくしゃと優しく撫でた。 「大丈夫よ。弘幸くんを好きにならない女の子なんていないから。ちゃんと叶うから頑張ってね」 「うん……。ちゃん、有難う」 まるで姉と弟のような会話に冴木の入る隙はなかった。 「待っててね、いま珈琲持ってくるから」 もう一度、くしゃりと芦原の天然パーマの髪を撫でるとはキッチンに引き返した。残された芦原は今度は冴木に向き直る。 「ねぇ、冴木くん。頑張れば大丈夫かなぁ」 「がそう言うんだから、大丈夫です。なんですか、いつもの強気の芦原さんじゃないみたいですよ」 「うん、だってねぇ。そろそろオレも冴木くんみたいにオレのたった一人の人を見付けたいなぁ、って」 冴木は一瞬、言葉を失った。芦原がそんなことを考えていたなんて冴木は思っても見なかったのだ。芦原はいつだって楽しそうに人を好きになっていたから、冴木にとってののような、そんな人を探しているとは想像もしなかった。はこんな芦原の気持ちを分かっていたのかも知れない。 冴木はゆっくりと笑みを浮かべると芦原に伝えた。自分がを見付けられたように、芦原もその誰かを見付けられる筈なのだ。 「……だから大丈夫ですって。いざとなったら俺もも芦原さんの為に一肌脱ぎますから、頑張って下さい」 「ありがとう。本当に冴木くんて良い奴だなぁ」 現金な芦原の言葉に冴木は苦笑いよりほんの少し柔らかいものが混ざった笑みを浮かべた。 「はいはい。上手くいったら、ちゃんと紹介して下さいよ」 「勿論!四人で遊びに行こうね」 芦原の声がリビングに響いた。 |
続きを書いてしまいました。えーと、苦手な方はお気を付け下さい。って、ここで書いてももう遅いですね…。続きと言っても、一話完結、時間も前後します。簡単な設定でも更新履歴にでも書いておこうかと思っています。 次は院生時代あたり希望。 20040417 |