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ありふれた日常に至る三つの方法
 その日は風の強い日だった。
 駅前のファーストフードでの腹ごしらえを済ませ、いつもより早いが棋院に向かおうと二階の席を光二が立ったところ、声が掛かった。
「−−光二、もう行くの?」
 階段から同じ院生一組の芦原弘幸が顔を覗かせていた。同じと言っても現在一組一位の弘幸と一組に上がったばかりの光二とは少しばかり差がある。けれど、それは弘幸の方が先に院生になっているのだから仕方ないと光二は割り切っている。すぐに追いつく予定だからだ。光二の師匠からも塔矢門下の芦原には負けるなとハッパを掛けられつつも、院生時代が何位でもプロになることの方が重要だと言われている。要は何処まで登り詰められるかだ。
「食べ終わったからな」
「待っててよ。一緒に行こうよ」
 弘幸が自分のトレイを目線で示しながら、光二の座っていた席の向かいに腰を下ろす。対する光二はさっさと椅子からカバンを取り上げると階段へと歩き出した。
「嫌だね。今日はお前と対局だもん」
「えー。いいじゃん」
 師匠の拘りもあって、塔矢門下と馴れ合う気はなかったが、光二と弘幸はウマが合った。院生研修に通うようになって初めて言葉を交わした時に、弘幸が同類なのが分かった。何が同類なのかと問われると言葉に困るが、敢えて言うなら見ている先が同じだったのだ。相手もそれが分かったらしく、それ以来、歳は弘幸の方が一つ上だったが、何かと連むことがあった。
 考え方も碁の打ち方も全く違って、学校で同じクラスに居たなら絶対に友達にならないタイプだ。それがこの場だと、一番近くに感じられるからおかしなものだ。
 しかし、今日は対局相手だ。負けたりしたら、師匠の眉間の皺が一つ多くなってしまう。
「先、行ってるよ」
 肩越しにひらひらと手を挙げるつれない光二に思いっきり舌を出すと、弘幸は急いで後を追うべく、トレイの上を片付けることにした。

 一階に下りて、店員の必要以上に大きい声を背中に、出入り口の自動扉の前に立つ。ガラス扉越しに自動ドアの前を女の人が通り過ぎるのが目に入った。視界に入ったのは肩までの髪のすっきりした後ろ姿だけだったが、何となくそのまま外に出ると光二は彼女を目で追った。向かう方向は同じで、光二は彼女の後ろ姿に付いていくようにして棋院へと歩き出した。
 数メートル後ろから伺うと、彼女は何処かを探しているようで周囲と手許を視線が行き来している。ストレートの、黒髪と言うには若干色素の薄い髪が風と歩行と視線に揺れる。
 どこに行くんだろうかと、光二は思考を巡らせた。この先にはめぼしい建物は棋院か大学くらいしかない。様子からして大学の下見だろうと光二は見当を付けた。下見にしては時期外れだったが、いまだ中学に通っている最中の光二にはそこまで思い当たらない。
 そろそろ彼女が棋院の入口に差し掛かるというその時、一際強く風が吹いた。一瞬、光二は目を瞑り、耳に届いた小さな叫びに連られるようにして目を開く。ちょうど風に飛ばされた白い紙が光二の足許を過ぎるところだった。反射的に右足でその紙を踏みつけると、光二は声のした方に視線を向けた。走ってくる目の前を歩いていた彼女がほんの少し恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに光二に向かって笑いかけた。
「−−有難う」
 その瞬間、光二は自分の心臓がどくんと大きく音を立てるのを聞いた。
「あ……」
 色の白いすっきりした大人の顔は周囲に居る年上の女性のものとも違い、夏の日の朝のようなひんやりとした空気を光二は思った。
「ちゃんと持っていなかったから、手から飛んで行っちゃって」
 柔らかい声はともすると空気に紛れてしまうが、彼女の声はガラスの硬さでもって光二の耳に落ちてくる。身体中の関節の動かし方を忘れたようなぎこちなさで、光二は屈んで足で押さえていた紙を拾う。足跡がうっすらと付いてしまった紙を手で叩くと、それは棋院への地図だった。
「ごめん、汚しちゃった」
「ううん、気にしないで。捕まえてくれて助かった。有難う」
 地図は光二の手から彼女に戻ると、そのほっそりした指で畳まれた。確かにもう用無しだろう。棋院はすぐそこなのだから。
「棋院に行くの?」
「え?あ、うん、日本棋院。あそこでしょ?」
 左後ろを僅かに振り返り、示す。近くで見ると、彼女は光二よりも頭二つ分は背が高い。それが何とも面白くなく感じるのに、光二は戸惑った。それを誤魔化すように、口調がぶっきらぼうになる。
「うん。碁を打つの?」
「ううん。打つ訳じゃないんだけど、君は打つの?」
「今から研修だから」
 院生と言っても判らないだろう彼女に、それでもただのアマの碁打ちと違うことを示したくて光二が回りくどい言い方をすると、彼女は判らないながらも敬意を払うような柔らかい笑みを浮かべた。それに再び、光二の鼓動は大きく脈打つ。指先の温度まで上がった気がして、光二は両手を握り締めた。
「そうなんだ。じゃあ、宜しく。今日から私、バイトに入る予定だから」
「バイト?」
「そう。受付のバイト。見かけたら声掛けてね」
 また逢える。そう判ると身体の内側から温かいものが広がった。自然に浮かんだ笑みとともに、嬉しそうな声で光二は彼女に名前を訊いた。
「名前は?」

「俺は冴木光二」
「光二くんね、宜しく」
 屈託なく笑う彼女に、いつもの万人向けの社交用とは異なる笑みを光二は自然に返していた。
「こちこらそ」

「―― こうじー」
 と並んで棋院に入ろうとした時、後ろから大きな声で名前を呼ばれた。振り返らなくても判る、弘幸だった。このまま無視してしまおうかと考えたが、同じようにその声が耳に届いただろう彼女に訊かれてしまった。
「お友達?」
「同じ院生」
 くすりと彼女が笑う気配が頭上でした。見上げると彼女は手を振って先に棋院へと入っていく。
「じゃあ、またね」
「……うん」
 視界から彼女がすっかり消えてしまってから、ようやく光二はいま来た道を振り返った。走ってきたのだろう弘幸はもうすぐそこに居る。
「そんなに急いでくる必要なんてないだろ?」
 無性に気持ちが苛ついた。事務所まであとほんの少しだったんだから、もう少し遅くて良かったのに。もしくは声なんて掛けないで歩いてくれば。そう光二は心の中で弘幸に対する難癖をつける。
「一人で食べてたってつまんないじゃん。ねえねえ、いま一緒に居たの誰?」
「今日からバイトだって」
「へー。……ねえ、なんか光二、機嫌悪い?」
「別に」
 弘幸は他人の機微に聡いのに、対処の仕方が直接的だった。同じように聡い光二はやんわりと対処するのに対し、弘幸はそこまで気遣いを広げていなかった。もしくは相手が光二だからかもしれないが、そのように直接的な訊き方をされると、まだ精神修業の出来ていない光二は感情のまま突っぱねてしまいたくなる。
「別にじゃなくて、かなり悪いよ。何かあった?今のバイトの人?」
「違うっ!」
「……光二?」
 激した自分に驚きながら、弘幸に当たりたかった訳ではない為、すぐに光二は謝った。
「……ごめん。別に機嫌なんて悪くないから、早く行こう」
「うん……」
 棋院に入っていく光二に付いていきながら、弘幸は首を傾げた。

 その日の対局は弘幸の三目半の勝ちだった。一通り、検討とぼやきと軽口を終えると、光二と弘幸は部屋を出た。
「次は俺が勝つからな」
「えー、次も俺だと思うな」
「言ってろ」
 一階の受付の前を通る時に、光二は事務所の中を覗いた。よく見えなかったが、はいないようだった。弘幸に負けたことより、彼女の姿が見えなかった方が残念に思えるのはどうしてだろう。光二が口を軽く結んで前を向くと、弘幸が顔を覗き込んできた。
「なに?」
「何でもない」
 弘幸も光二より頭半分ほど背が高い。棋力とともにすぐに越してやると光二は思う。
「何か言いたそうだな?」
「んー、まあね」
 煮え切らない弘幸に再度問い掛けようと開いた口はそのまま止まった。ホールに設置されている自動販売機の陰からの姿が現れたからだ。
「あ……」
「光二くん。お疲れさま、また来週」
 笑みとともに光二に向けられた言葉。彼女の口から出る自分の名前。それだけなのに無性に光二は嬉しかった。
「うん、来週」
 事務所に戻っていく彼女の後ろ姿を見送って、はたと弘幸の視線に気が付く。
「何だよ?」
「ふーん……」
「何が『ふーん』なんだよ?」
「いや、べつにぃ」
「弘幸!」
「まあまあ。ほら帰ろうよ」
 宥める弘幸を一瞥すると、憮然とした表情のまま光二は先に立って歩き出した。
「あ、待てよ、光二」
 光二がに好感を持ったのは紛れもなく、どの程度のものと受け取ったかは判らないがそれを弘幸が察したのも間違いはなく、初対局で弘幸に負けたのも事実だった。
 不意に目まぐるしくなる日常が予感として落ちてきて、光二は何の色も付かない呼気を一つ、夜気に溶かした−−。





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院生時代です。何気に口の悪い冴木さんですが、中学生ということで許してやってください。成長するにつれ、良い男度が増していくものと思われます(希望)。
そしてやはりドリーム度低くて申し訳ない限りです(汗)。   20040515

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