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幸福論改訂  +++++ 17

 駐車場に車を駐めると助手席に広げていた棋譜を纏めた。ファイルに挟んで後部座席に投げ置く。運転席から降り、ドアを閉めると愛車を眺めた。午前中掛けて洗った甲斐があって綺麗に艶が出ている。ピカピカな車体に満足してルーフを一つ叩くと、棋院へと足を向けた。

 受付で確認すると鍵は既に借りられていて、手ぶらでエレベータに乗り込む。準備をするにはギリギリの時間だから、当然と言えば当然だ。降りた階で一番賑やかな気配のする部屋の引き戸を開けて、三和土に上がる。聞こえてくるのは和谷と進藤の声で、今日はフルメンバーだなと苦笑した。
「よお」
「あ、冴木さん!」
「冴木さんっ、昇段おめでとう」
「おめでとう!」
 襖を開けて声を掛けると、振り向いた二人から競い合うように祝いの言葉を貰った。
「おっ、Thank you、二人とも」
 わらわらと研究会の支度を放り出し、駆け寄ってきた二人が口々に話し出す。
「そろそろだと思ったんだー、俺」
「冴木さんの快進撃、スゴかったもん」
「二人とも煽てたって、ファミレスの夕食ぐらいしか出ないぞ」
「やりーっ!」
「さすが、冴木さん」
 嬉しそうに互いに顔を見合わす二人にちゃんと働くよう促すと、部屋の奥に作られたスペースに鞄を置いた。準備は彼らに任せて一服しようと、机の上に置かれた棋譜を引き寄せて見るともなく見る。
「冴木さん……」
 振り向くと進藤の姿はなく、和谷だけが残っていた。進藤は?と喉まで出掛かった言葉を和谷の顔に、飲み込んだ。
「どうした、和谷。もう終わったのか?」
「昇段って、やっぱり嬉しいもんだよな」
 視線を逸らし気味に、神妙な声で言葉を綴る和谷に怪訝な思いを抱いたのは一瞬で、まだ昇段の声が聞こえない弟弟子の気持ちが分かるような気がした。
「……そうだな。師匠の機嫌が良くなるからなぁ。まあ、保つのは一月が精々だけど」
 昇段は確かに嬉しいけれど、それは目指しているものではない。自分の軌跡が目に見える形になるが、それは他者の評価による相対的なものでしかなく、通過点に過ぎない。辿り着きたいところはそこではないと、思い出すことを優しい弟弟子に願う。
「一月経つと、塔矢門下に負けるなって?」
「そうそう」
 一月かぁ、と小さく笑って言う和谷の表情が大人びて見え、手を伸ばして彼の髪を掻き回した。
「そう言えば、今日、さんが顔を出すって言ってたぞ」
「本当?!」
「ホント、ホント」
 一瞬にして変わる表情に、和谷は和谷だと思って笑う。ちょうど部屋に戻ってきたポットを持った進藤を振り向くと、和谷は大きく声を上げた。
「進藤!さんが来るって」
「久し振りじゃん」
「よーし!今日は頑張るぞー」
 いつも、変わらず屈託のない彼に見えて、それでも変わっていっているのだろう。進藤と会い、新しい人と会い−−自分が変われるほどの誰かと出会うのは少しばかりの理不尽な怒りとそれよりも少し多い嬉しさがある。そうやって変わっていく弟弟子を楽しみに思いながらも、少し寂しい気もする。
「和谷、今日は手合いじゃないって」
「良いんだよ、景気付けだって」
 ふざけ合う二人を見ながら、ふと白川さんもこんな思いをするのだろうかと思った。

 若者二人が階段に走るのを、見送ってから乗ったエレベータが一階に着く頃には、ホールには賑やかな声が響いていた。ホールに足を踏み入れると、ソファの前に出来た一団の中から、彼女がこちらを見るのに、目で応える。
 受付に部屋の鍵を返すと、みんなの下に向かった。さんの両側に白川さんと和谷、進藤と並んで、ホールに響く会話から夕食の店を選定していることが判る。輪に加わると、白川さんが確認をしてきた。
「冴木くん、いつものファミリーレストランで良いかな?」
「良いですよ。じゃあ、俺は車で先に行ってますね」
 車に五人は乗れない為、いつも徒歩と車に分かれるが、大体が一人で車を回している。今日もそのつもりでいると、珍しく白川さんが同乗を申し出てきた。
「今日は僕も車に乗せて貰おうかな」
「どうぞ」
「有難う。じゃあ、そろそろ出発しようか」
「賛成!俺、お腹ペコペコ」
 進藤が一番に賛成し、白川さんとメニュー談議をする後ろを、和谷がさんの顔を覗き込みながら続いた。
さんは何にする?今日は冴木さんが奢ってくれるんだって」
「あら、そうなの?」
 楽しそうな表情でさんが振り返った。苦笑を返して、和谷に並ぶと頭をこつんと叩く。
「おいおい、和谷。お前が胸張って言うことじゃないだろう」
「えー、良いじゃんか。兄弟弟子の仲じゃん」
「困った弟弟子だ」
 小さくぼやくと、和谷はへへっと鼻の頭を掻いた。
「細かいことは言わない、言わない。さん、今日は昇段祝いなんだぜ」
「あはは。昇段した本人がみんなに奢るなんて面白いのね」
「……あれっ?さん、冴木さんが昇段したの知ってるんだ」
「うん。冴木くんから教えて貰ったから」
「ふーん」
 和谷が俺を見上げるのに頷くと、妙なところで聡い弟弟子はちょっと笑った。
「次は和谷くんに奢って貰わなきゃね」
「任せといて!」
 彼女の言葉に和谷は満面の笑みで胸を叩いた。

 分かれ道で二手に分かれると、賑やかな今までの道程と変わって、短い駐車場までの距離を沈黙が満たした。探せば会話の糸口は幾らでもあったが、ゆっくり歩を進めながら俺は白川さんが話し出すのを待った。
 街灯の光に照らされた水色のビートルが見えてきた時、兄弟子が口を開いた。
「−−ちゃんは、普段、全く泣かないんだけど、その分、泣いてる時は本当に辛そうに見えるんだよね」
 大きい声ではないにも拘わらず、淡々とした声は夜の空気の中、形を持って沈んでいく。前を向いたまま、彼の言葉に綴られた覚えがある姿に小さく頷いた。
「……そうですね」
「従兄としては、そんな姿は出来るだけ見たくないと思うんだ」
「俺も見たくないです」
「うん。宜しく」
 声は穏やかだった。
「はい」
 愛車の前で立ち止まり、白川さんの顔を見るともう一つ、言葉を重ねた。
「幸せにします」
「うん……」
 電柱の乏しい光の中、静かな笑顔が見て取れた。

 車を走らせると、白川さんが言った。
「そう言えば、冴木くんはちゃんの持論を知ってる?」
「何の持論ですか?」
「暖かいベットと美味しい食べ物があれば幸せになれるんだって」
 それは……俺には彼女を幸せに出来ないということなんだろうか?
「−−俺はどうすれば良いんでしょうかねぇ」
 楽しそうに笑う兄弟子の顔がフロントガラスに映った。
「でも、最近、もう一つ幸せに必要なものが増えたらしいよ」
「何です?それは」
 ファミレスの駐車場の入口で減速すると、歩道を歩くさん達の姿が見えた。車に気が付いたさんと一瞬、視線が合う。そのもう一つくらい、俺が持っているものであるように彼女の笑顔に願う。
「誰かさんが傍にいることだって」
「誰かさんて……」
「さあね。そこまでは聞いてないから。まあ、またいつ変更が入るか分からないけどね」
 駐車場にゆっくりと進入しながら、空きスペースを探す。十代の恋でもないのに、頬が熱くて堪らない。暗い車内に居ることを誰にともなく感謝する。
「入りませんよ」
「そうだと良いけどね」
 にっこり言う白川さんに、絶対です、と断言する。
 こんな些細なことでも幸せになれるから、多分、ずっと幸せでいられると、思う。その努力は碁に対するのと同じように怠るつもりはない。
 エンジンを切りながら、ドアガラスの向こう、俺の幸福の基−−さんの姿を探した。


                               +++了+++




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長い間、お付き合い有難うございました。
これで終わりになります。どこかで少しでも楽しんで頂けたなら、嬉しいのですけれど。                                20050516


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