幸福論改訂 +++++ 16 | |
† 「どうしたって……。冴木くんこそ、彼女はどうしたの?」 さんを泣かせたものが何なのかの答えは貰えず、返される問いに焦りを感じながら、まずは答える。 「彼女って……、ああ、桜野女史ですか」 「お客さんて桜野さんだったの?」 後ろから聞こえてきた声に、すっかり兄弟子の存在を忘れていたことに気付く。そのまま白川さんは俺の横を通って、幾分、さんに近い場所に立った。 「お兄ちゃんも知ってる人なの?」 「女流棋士の気風の良い女性だよ」 ね、と兄弟子に同意を求められて頷く。 「岡田達がみんないきなり押し掛けてきて、すごい有様ですよ」 「賑やかだね」 こんな風に和やかに岡田達の話をしたい訳ではなく、逸る気持ちのままちらりとさんに視線を投げた。白川さんを見る彼女の横顔には何の表情も浮かんでいず、ただ痛々しい程の泣き跡が目に入るだけだった。 「この頃、冴木くんが脇目も振らず疾走してるから、息抜きでもと思ったんじゃないかな」 「そうみたいです。同期って有難いものです」 俺の気を削ぐように、穏やかにさん抜きの会話を進めていた白川さんが、不意に彼女に話を振った。 「そうだね。ちゃん、ここのところ冴木くんは負けなしで、森下師匠の研究会なんかでは遊びもせずに碁に打ち込む冴木くんを初めて見たって、みんな言ってるんだよ」 しかし、さんは何も口にしないまま、ただ俺の顔へと視線を移しただけだった。 「白川さん、人聞きの悪いことを言わないで下さい」 「あ、失言だったかな?」 「白川さん、時々、人が悪くなりますよね」 「そうかな?僕としてはかなりのお節介のつもりだったんだけど」 「何がですか?」 意味の通じないことを柔らかい笑みを湛えて口にすると、白川さんはさんへと歩み寄った。 「まあまあ、僕はこの辺はお暇するから。じゃあね、ちゃん」 「お兄ちゃん!?」 白川さんは身を傾けてさんの耳許に小さく何かを告げると、見送りは良いからと言って、リビングを出て行った。残された俺とさんはそのまま、扉が開閉する音を聞いていた。 さんが廊下の先を見詰める間、俺は彼女を見ていた。何か迷うような、そんな瞳で投げていた視線がふと緩んだ時に、俺は再度、問い掛けた。 「−−何が、あったんですか?さん」 「……何がって?」 視線がやっと俺を向くのに、嬉しく思う。そう。逢うのも、二人だけなのも、あの答えを貰った日以来で、嬉しいと思う心にまだ好きなのだと、再確認する。 「電話の用事と、あと……それは?」 一歩、彼女に近付き、彼女の頬に手を伸ばそうとして途中で止め、代わりに自分の目尻を示した。 「あ、うん……」 彼女の胸の下で合わされた指に力が入ったのが解った。息を飲み込んで、キュッと口唇が引き締められてから、彼女から声が作り出された。 「ごめんなさい。大したことじゃなかったの。カレーを食べに来ないかと誘いたかったから、電話をしたの。お客様だったから誘わずに切ったんだけど、ちゃんと言えば良かったよね。そうしたら、わざわざ来なくても済んだのに」 笑みを作りながら明るい声で話しているのに、張り詰めているように見えて、最後の言葉が震えて聞こえた。心配でならなくて、抱きしめてしまいたいのを手を握って戒める。初めて泣いている姿を見た時のように、慰めようという思いだけで抱き締めることはもう二度と出来ないから、気持ちを抑えつけ、殺す。 「カレーを?それは、喜んで御相伴に与りたいんですが。でも、その跡はどうしたんですか?」 尚も言葉を重ねて押し付けがましくならないよう気を付けて問い掛けると、視線を逸らして彼女が小さく呟いた。 「……泣いてたから」 「何があったんですか?」 その理由を、何が彼女を泣かせたのかを知りたい。出来るなら、その原因を取り払ってあげたいと思う。それぐらいなら、いや、俺にはそれぐらいしか出来ないから。 「−−冴木くんに彼女が出来たと思ったから」 「え……?」 いま、彼女は何て言ったのだろう。一瞬のうちに、虫の良い考えが頭を巡る。そんな訳はないと思いながら、心臓がどくんと音を立てるのが耳に痛いほど響いた。 目の前の横顔に、からからになった喉から絞り出すようにして尋ねる。 「……それは、さっきの、電話口、でのこと?」 彼女が小さく頷いたように見えた。 「さん−−」 「ねえ、冴木くん。聞いて欲しいことがあるの」 口に仕掛けた彼女の名前を攫うように、さんは言葉を紡ぐ。 「何ですか?」 真っ直ぐに向けられた視線を受け止めて、さんを見る。彼女の言葉を渇望していて、それでいて止めたい気もする。ここで期待してしまったものが打ち砕かれたら、深手を負うだろうから。それでも、パンドラの箱に残された人類最悪の災厄である希望を捨てることが出来ない。 「あの、ね。前の話になるんだけど、私……」 一度、伏せた睫毛が震えていて、気が付くと両の指はきつく組まれている。彼女にこんな表情をさせているのが自分だと思うと、もう傷つきたくないなどと言っていられなかった。彼女の言葉を待って、これ以上、彼女に居たたまれない思いをさせることは出来ない。自信過剰でも、自惚れでも構わない。彼女が口にしようとしている言葉が俺の欲しい言葉と同じだと祈って−−。 「−−さん、先に俺も言いたいことがあるんですが聞いてくれますか?」 途惑った瞳で彼女が俺を見上げるのにも構わず、俺は続けた。 「さんが好きなんです」 「……っ!?」 「答えは、今度は一月も待てません。いますぐに欲しいんですが、貰えますか?」 目を瞠った彼女は、一度、瞬きをして、それから泣きそうな顔で大切な言葉をくれた。 「……あ、私も好き」 目と目が合い、一歩の距離を縮めて、両腕を広げ、そっと触れると、彼女は腕の中に転びこんだ。温かい身体を抱き締めて、柔らかい髪に頬で触れた。愛しさが込み上げてきて、泣きたい気持ちになる。 「さん……」 呼び掛けるとさんは顔を上げた。 「本当に?」 「本当に。本当に?」 「本当に」 二人で小さく笑う。 それから彼女を片手に抱き締め直すと、右手で涙の跡の残る頬を撫でた。泣き顔の彼女にする二度目で、そして初めての接吻けをする為に−−。 |
ここで終わっても良いかなと思ったのですが、あともう少し続きます。 取り敢えず、冴木さんが報われて、一安心。 20050501 |