幸福論改訂 +++++ 8 | |
† 土曜の午下がり、滅多に鳴らない家の電話が鳴った。 「−−はい、冴木です」 『です。こんにちは』 「こんにちは、さん。どうしたんですか?」 携帯じゃなく家になんて珍しい。何かあったんだろうかと、僅かに心配になる。 『うん。家に居るかなぁ、と思って。居てくれて良かった』 「何かあったんですか?」 明るい口調に深刻なことじゃないことが察せられて、ほっとする。しっかりしているのに、時々抜けたことをしているから、つい気に掛かる。 『うん。冴木くんに助けてもらえると嬉しいんだけど。今日は暇?出掛ける予定とかない?』 「ありませんよ。何ですか?もしかしてまた蛍光灯が切れました?」 先日の一件を思い出して尋ねると、揶揄われたかと思ったらしく彼女は拗ねた口調で否定した。 『もう!違います。そんなこと、お兄ちゃんに言わないでね。後で叱られちゃう』 「あはは。言いませんよ。蛍光灯を取り替えようとしたけど、脚立に乗っても届かなくて、電話が掛かってきたなんて」 何となく言い出す切っ掛けがなく、自分からは白川さんに、さんと頻繁に行き来していることを話していなかった。彼女は最近はもう研究会の日にほとんど顔を出さなくなり、白川さんとどんな頻度で話をしているのか知らないが、多分、さんが話しているだろうと勝手に推測している。 『うー。前の所より、天井が高いんだもの、仕方ないじゃない』 「勿論、仕方ないと思いますよ。だから、いつでも電話下さいって言ったじゃないですか」 『……その時は宜しくお願いします』 棒読みのさんに吹き出してしまう。結構、意地っ張りなんだと最近、解った。 「で、今日はどうしたんですか?」 『あ、えーと。カレーが食べたいんだけど、付き合ってもらえないかと思って』 「カレーですか?」 思いもかけない話に面食らい、彼女の言葉を繰り返した。 『最近、カレー、食べたりした?』 「いえ、食べてませんけど、また突然」 『だって、こういうのって、突然食べたくなるでしょう?』 それはきちんと正しいと、納得した。 「確かにそうですね。良いですよ。どこに食べに行くんですか?」 『違うの。私が作るから食べて欲しいの』 「さんがですか?」 てっきりどこかに食べに行くのだと思っていたので、意表を突かれた。 『あ、いま思いっきり、不審な声だしたでしょう。これでも、結構カレーには自信はあるんだから』 「そんな声だしてませんよ」 『そう?まあ、そういうことで良いわ。何時頃なら来られそう?私の方は遅くても六時頃には何とか形になっていると思うんだけど』 「じゃあ、六時半頃に伺います」 『うん。待ってます』 電話を切ってから、確かにカレーを一人分だけ作るのは無理だろうと頷いた。カレーは分量を幾ら抑えめにしても鍋一杯に出来てしまい、一人で食べようとすると何日もカレーの上る食卓という悲惨なことになる。きっと今までは件の彼氏と食べていたんだろうと思うと、何とも言えない気分になり、そんな自分に苦笑いする。 思い返すと、自分も久しくカレーを食べていなかったかもしれない。さんの手作りを楽しみに、当初の予定通り、午後は検討をして過ごした。 六時半を少しばかり過ぎた頃、さんの部屋のチャイムを鳴らした。 「はーい」 奥から彼女の声が聞こえたかと思うと、躊躇なく扉が開かれた。中から食欲を刺激する美味しそうなカレーの匂いがしてくるが、それよりも気に掛かることがあった。 「いらっしゃい」 「いま、レンズで確認しました?」 笑いかけるさんに招き入れて貰いながら、真面目な顔で問い掛ける。案の定、彼女はバツの悪そうな顔をする。 「えーと、してないけど」 「さん、不用心すぎますよ」 溜息を吐いて見せた。ここのところ物騒なニュースも多いし、用心するに越したことはない。そう思うのは前の、焦りながらさんの部屋を目指した記憶があるからかも知れない。あの時はそういう意味では何でもなかったから良かったものの、もし何かあったらと思うと心臓が痛くなる。そんな心配を目の前の彼女は全く気が付いていない。 「でも、冴木くんだし」 「もし違ったらどうするんですか?」 「えーと……」 困ったように口を噤んでさんは上目遣いで俺を見るのに、思わず苦笑した。 「気を付けて下さいね」 「うん。気を付けます」 本気で言っているのが分かって、自然に笑みが浮かんだ。柔らかい外見と違って、中身は物怖じしなくて、きっぱり、さっぱりしているのに、こんな風に素直なところが可愛らしく見える。 薄々、気が付いてはいたが、俺は彼女を白川さんの従妹ではなく、同じマンションの住人でもなく、大事な友人として位置づけていることを改めて認識した。 紺と白の統一された食器に、カレーとグリーンサラダ、コンソメスープが盛られ、カッティンググラスの側には冷えた白のワインと、テーブルの上は綺麗にセッティングされた。何度かこの部屋に上がったが、自分の所とは違って、ここにはいつも柔らかい空気がある。それは例えば、こんな風に持て成しが出来るところだろうか。 どうぞと促され、キノコ類が沢山入ったカレーを一口、口に入れた。何の気なしに口にしたそれは、思わずスプーンを止めるほど美味しかった。カレーに拘りはないが、美味しいものは判る。確かに彼女が自信があるというだけのことあった。 「さん」 「なに?もしかして口に合わない?」 気にしてない素振りをしながら、俺の反応を心配気に見ていたさんに、にっこり笑った。 「美味しいです」 「本当?良かったー。得意だって言った手前、ドキドキだったの。食べられればお代わりしてね」 さんは安堵の笑みを浮かべて、スプーンを付けずにいたカレーを口に運ぶ。美味しいものを食べ始めた途端、急に空いたように感じる腹の要求通り、俺も再び食べ始めた。 「俺が今まで食べた中で、一番、美味しいですよ」 「そこまで言うとお世辞に聞こえるわ」 「本当ですって。こんなに茸が入っているのも初めてです」 何種類の茸が入っているんだろう。茸カレー自体が初めてだ。肉よりも何よりも茸の姿が目に付く。 「あ、それはよく言われる。元々はね、お兄ちゃんのリクエストなの」 「白川さんの?」 カレーから目線を上げて、さんを見た。 「そう。お兄ちゃん、茸好きだから。中学の調理実習時に習ったカレーを作ってあげようとしたら、茸カレーが良いってね。あの時はもう必死で作ったわよ」 「……中学の時からの十八番ですか」 「人に食べさせられるようなものになったのはもっと後」 そう言って、さんは懐かしむ瞳の色で柔らかく笑った。 「最初は酷いものが出来てたけど、お兄ちゃんは毎回残さず食べてくれて、よくお腹壊さなかったものだと今になって思うわ」 懐かしいような、悼むような声音は、今まで幾度か何人かから聞いたことがある。だから、そっと訊いてみた。 「もしかしてさんの初恋ですか?」 「うん。私なりに色々頑張ってもお兄ちゃんは碁しか見てないから、昔は碁は嫌いだったんだけど、今はそれも良い思い出だから面白いわよね」 もう一度、さんは綺麗に笑うと、声を潜めた。 「お兄ちゃんには言わないでね」 「言いませんよ」 絶対に、と胸の中で付け加える。笑みを浮かべて了承したけれど、胸の辺りに蟠りがあるのを感じた。打ち明け話と言うには可愛いものだけど、こんな話をするくらいにはさんから信頼されてるんだと思う。それでも、それは白川さんとは比べものにはならず−−。そう考えて、微かに気分が重くなる。 折角、美味しいカレーを御馳走になっているんだから、余計な思考は止めにしようと、頭を小さく振った。 多分、絶対に、このことを白川さんに言うことはないだろう。 |
前回から一ヶ月以上開いてしまってました。申し訳ないです…。 今回は冴木さんの意識変革の一歩目、とでもいうのでしょうか。次も引き続き、冴木さんの話になる予定です。今度はなるべく間をおかずにUPしたいと思います(希望)。 20040501 |