幸福論改訂 +++++ 7 | |
チャイムを鳴らして少し待つと、微かな足音が聞こえて、ドアが開かれた。 「いらっしゃい」 「お招きに預かりまして」 昨日見せた醜態を思い出して少しばかり顔を朱くして挨拶をすると、何もなかったような素振りで、にこりと笑いながら冴木くんはドアを大きく開けて私を招き入れてくれた。 「どうぞ」 彼の顔を見て、今日一日、知らず知らずのうちに入れていた肩の力が抜けたように思える。お邪魔しますと告げると、冴木くんの後から部屋に足を踏み入れた。 「ソファにでも座っていてください。いま、お茶を持っていきますから」 「あ、有難う」 言われたままにソファに腰を下ろして身体をクッションに預けると、一つ息を吐いた。この部屋を訪れるのは二度目なのに、どこか安心が出来る。シンプルなインテリアは気に障らない程度に優しく、余所余所しさ一歩手前の非干渉が落ち着ける。そう思ってから、それは冴木くんのことだと思った。一緒にいて、居心地が良い。 最初に思ったとおりに彼は女の子に慣れていて、いつだって気持ちよく過ごせたけれど、それは社交上の、相手に踏み込まない関係においてのもので、だけどいま感じているこの感情は昨日までのそれと違う。もっと近しい感情に移り変わっている。駆け引きめいた一線を引いた上のものではなく、安定した感情を彼に対して作りはじめている。それは昨日の自己開示によってもたらされた彼への親近感から発生したものだろうけれど、大事なのはいま自分が持つ感情であって、原因は俗物的なもので構わないと思う。冴木くんの位置が私の中で変わったのは事実だ。 「−−お待たせしました」 冴木くんの声に顔を上げると、目の前に若草色の綺麗な磁器の湯呑み茶碗と和菓子が置かれた。目に優しい桜色の道明寺と濃く淹れられた緑茶。 「今日は和菓子です」 笑いながら向かいに自分の分を置いて、ソファに座った。 「ちょっとびっくり。意表、突かれたわ」 お茶と言われて、てっきり洋ものだと思っていた。 「何となく和菓子の気分だったので。もしかして苦手でした?」 「ううん。大好き。和菓子も洋菓子も甘いものは何でも得意」 「それは良かったです」 どうぞ召し上がってくださいと勧められて、お茶を一口、口にする。 「美味しい」 緑茶の苦みの後に甘みが出てきて、これは淹れ方が上手なだけではなく、かなり高級なお茶の葉のようだった。気遣いされているようで、喉を通っていったお茶の所為ではなく、胸に熱いものが膨れた。 「有難う、冴木くん……」 「どういたしまして」 何でもないように軽く返してくれるのに小さく笑みを返して、私は湯呑みを茶托に戻すと姿勢を正して頭を下げた。 「昨日は色々とご迷惑を掛けました」 「さん。頭を上げてください」 冴木くんの困った声に、顔を上げるとやはり困った顔があった。 「気にしないで下さい。どちらかというと俺のお節介とも言えなく無いですし」 「お節介なんてとんでもない。本当に、すごい、助かった。冴木くんが来てくれて良かった……」 少し笑って、話す。今日一日頑張れたのは紛れもなく、昨日彼が慰めてくれたから。 「あのままじゃ、今日、どうなってたか分からなかった」 「お役に立てたようなら、良かったです」 柔らかく笑った彼に、もう一度有難うと告げた。 「なんかね、うん。ちゃんと吹っ切れそう。強がりでも何でもなく。溜めてたこと全部言っちゃった所為かな。それとも泣きたいだけ泣いた所為か。冴木くんには迷惑掛けちゃったけど、有難う」 あんな風に衝動的に洗いざらい話してしまうと、大抵はそのあと後悔して気まずい思いをするのに、冴木くんならいいやと思えて不思議だった。 「さん……」 「それから、また色々と厄介掛けちゃうかもしれないけど、宜しく。あ、えーと、今回みたいのじゃなくて、普通のことで」 やっと昨日のことを冷静に辿れるようになってきて、いきなり色んな事が気になってきた。 「こちらこそ。宜しくお願いします」 さらりと笑った冴木くんが、心に、残った。 次の火曜日、私はいつもより遅く棋院に行き、一人、一階の椅子に座って待っていた従兄に話をした。 「−−良かったね。ちゃん」 「有難う。本当に引越して良かったなぁ、って思う」 そう言って立ち上がると、優しい従兄を振り返って棋院を出ようと促す。 「冴木君にお礼を言わないと」 「うん。お兄ちゃんからも言っておいて」 肩を並べて棋院を出ながら、従兄に腕を絡ませた。 「今日は私が奢っちゃう」 「ちゃんが?明日、雨が降るんじゃないかなぁ」 驚いたように言うと、優しく笑って、私の髪をくしゃりと撫でてくれる。そんな風に撫でて貰うのは、随分久し振りのような気がする。何の含みもなく優しくされるのが嬉しい。多分、まだ弱っているのだろうけど、もう少しだけ浸らせて欲しい。 夜はまだ半ばで通りを過ぎる人の数も多いけれど、私を知っている人は居なくて、小さい頃のように従兄に甘えても誰も見ていない。 「降ったら、ちゃんと迎えに来てね」 小学校の頃、雨の日はいつも従兄に迎えに来て貰って、一緒に登校していた。いつもは先に行ってしまう従兄と一緒に歩けるのが嬉しくて、雨の好きな子供だった。 「ああ、ちゃんは雨の日が好きだったよね」 珍しい子供だったよね、と続く従兄の言葉に笑った。 「今は俗物になりまして、晴れの日の方が好きです」 ここ暫く、あの人と付き合っていた頃には、開放的なものとは縁遠かったけれど、緩やかに晴れた青い空と温かい太陽が良い。そして柔らかく吹く風と。一瞬、そのイメージが冴木くんと重なって、似合わない連想に苦笑して意識から追い払った。 「−−じゃあ、僕は昔から俗物だなぁ」 「あら、お兄ちゃんは子供の頃から俗物じゃなくて碁莫迦だったわよ」 「う、それを言われると何も言えないな」 そう言って頭を掻く従兄を見上げる。碁ばっかりで、全然、遊んでくれなくて、振り向いてくれなくて、そんなことで拗ねたのは昔の話。 「でも、そんな子供だったから、今こうやって居るんだし、いいんじゃない?」 「有難う」 照れ笑いをしながら、従兄は私の顔を覗き込んだ。 「ちゃんからそう言われると感慨深いものがあるね。前は碁なんて大嫌いって言ってたのにね」 確かに、昔は見るのも聞くのも嫌いだったけれど。 「いつまでも子供じゃないもの」 「そうだね。でもいつまでもちゃんは僕の大事な従妹だよ」 「有難う、お兄ちゃん」 自然に浮かぶ笑みを向けながら、私はいつまでも従兄には頭が上がらないんだろうな、と思った。 「お兄ちゃん。イタ飯で良い?あそこにしない?」 目に付いたそこそこの料理を出す、リーズナブルなチェーン店を示して、訊く。 「いいよ」 「来週はみんなに奢っちゃうわ」 「もう来ないってことかい?」 察しの良い従兄は少し残念そうな顔をしながら、私に訊く。 「うん。もう大丈夫だから。お兄ちゃんにも毎週、迷惑掛けちゃってたしね。でも、時々は遊びに来ても良いでしょ?」 「和谷くんや進藤くんも寂しがるし、月に一度は顔を出して欲しいな」 「そうするわ。和谷くん達と御飯食べるのは楽しいから」 本当にちゃんと終止符を打てる気がする。まだあの人のことは好きだけど、数日前までの苦しいほどの気持ちは何処か熱を落としていて、胸が痛むだけで済んでいる。想うと笑みになる前の小さな情が口許に浮かぶ。本当に、本当に、好きだったんだけど、きっとこうして少しずつ、全ての熱が冷めていくんだろう。そして、他の人を好きになるんだろう。従兄を好きだった昔の私みたいに。 幸せに、本当に必要なものは実は多くないんだと、この頃気が付いた。ゆっくり眠れる暖かいベットと、美味しいと微笑うことの出来る御飯と、周りを見て立ち止まれる余裕があるなら、幸せになれる。可笑しなもので、これらがあるならばあの人が居なくても幸せだと呟けるだろうけど、あの人が居てもこれがなければ幸せになれない。 人なんて薄情な生き物だと思う。だけど、だからこそ、あの人が幸せでありますように。今は心から、そう祈る−−。 |
ようやくタイトルに触れることが出来て、ほっと一息。このままだと訳の判らないタイトルになりかねませんでしたので(笑)。 そしてようやく、第一歩、のような…(汗)。 20040310 |