dream
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幸福論改訂  +++++ 15

 廊下を速い歩調で進み、一段飛ばしで階段を上がる。白川さんから遅れること、何分か。それでも両手は超えていない筈だ。
 久し振りに立つ、ちょうど自分の家の真上、さんのドアの前で息を整えると、チャイムに指を伸ばした。僅かに震えて見えるのは気の所為か、もしくは指先に血が通っていない所為だ。
『−−ピンポーン』
 ドア越しにくぐもったチャイムの音が漏れて、息を止めるようにしてインターフォンからさんの声が聞こえてくるのを待つ。
『−−はい』
「冴木です」
『……冴木くん?』
 驚いたように聞こえる声が、電気を通している所為か、掠れたように聞こえる。
「そうです」
『……え、だって。え、待って、あ−−』
 足音が近付いてきて、ドアが開いた。
「こんにちは、冴木くん」
 ドアの向こうに現れたのは兄弟子の姿だった。窓から見た姿そのままの白川さんに、自分の目の良さを自讃する。招き入れられるまま、彼女の家へと足を踏み入れた。
「お邪魔します」
 三和土を上がると廊下の先、リビングの中程にさんが立っていた。後に続く白川さんに圧されるようにして歩を進めると、逆光でよく分からなかった表情が、近付くにつれて顕わになった。
 どこか褪せたような表情、朱くなった目尻と充血が残る目。
「……どうしたんですか?!」


  †


 受話器を戻す為に視線を落とすと、自然に俯くことになった。
 乾いた頭の、何処か遠くの方で、作ったカレーをどうしようかという思考が浮かぶ。どう訊けばさり気なく聞き出せるだろうと頭を振り絞り、従兄の今週末の予定を訊く振りを装って、冴木くんのスケジュールも聞き出したのも無駄だったんだな、と水分のないさらさらとした思考が巡る。
 目に映る電話機は電話する前と何も変わらない。本当に何も変わらないのだ。
 聞きたくて堪らなかった冴木くんの声は、前と変わらないように聞こえた。第一声を耳にした時、嬉しくて声が上擦らないように気を付けないといけない程で、自分の想いだけで精一杯だったから、気付かなかった。
 そう。彼女が来ているのに、律儀に私の電話に応対してくれて、私を気遣ってくれている可能性に。そんなところは冴木くんらしいと思う。私の好きになった冴木くんらしい……。
 目頭が熱くなり、喉に熱い固まりが込み上げてきた。右手で眉間を押さえたけれど、目を閉じた瞬間、嗚咽が漏れた。眼球が熱くなる。喉の奥が痛い。
 目尻に堪る水分と、胸の奥から迫り上がってくる痛み。両の手で顔を覆っても、もう何も止まらなかった。
 電話台の前でしゃがみ込んで、この情動が薄れるまで付き合うしかなかった−−。

 どのくらい、そうしていただろう。電話台に寄り掛かり、天井を目に入れる。目蓋は腫れぼったく、喉も頭も痛い。でも、もう疲れて、涙も嗚咽も出ない。
 小さく、うそ笑んだ。
 どこかで私はまだ冴木くんの心は私にあると思っていたらしい。私が自分の気持ちを伝えれば上手くいくと、傲慢にも、そう思っていたみたいだ。人の心は動くのが当たり前で、人の想いは移ろいゆくものと決まっているのに。
 昨日までの自己憐憫な落ち込みとは決定的に違う、喪失の心痛。時間は取り戻せない。チャンスは一度だけなのだと、身を以て知った。
 ここのところ、ついていないな、と思う。御祓いにでも行ってみようか。そしてもっと前向きに。次は間違えずに、選べれば良いと、軋む心で思ってみる。本当は次なんて欲しくないと、叫びそうな想いを宥め賺して。
 小さく、呼気を吐く。
 大丈夫。あの人の隣に居られなくても食べ物は美味しかったし、冴木くんが傍に居なくても幸せだと感じられる筈。今はまだ笑えないけど、冴木くんの幸せだって祈れないけれど、美味しい食べ物と暖かいベットがあれば、幸せになる必要条件が揃っているんだから、綺麗に笑えるようになる。
 自分に言い聞かせて、ゆっくりと立ち上がった。
 目に入った電話機から受話器を取り上げて耳に当て、ほんの少し、ダイヤルトーンを聞いた。痛む胸に苦り笑って、従兄の携帯番号を押す。カレーを食べに来ないかと誘う為に。キッチンに用意したカレーは、冴木くんに食べて貰おうと思って作ったから、最近になく美味しく出来ている。
 呼び出し音を聞きながら、目を閉じた時、目尻が引き痙れて、痛んだ。



 従兄は玄関に立つ私を見て、驚いたように目を瞠った。それから、手を伸ばして、頭を撫でてくれた。その暖かい掌の温度が染み入るようで、私は幸せなのだと思った。
「−−どうしたの?お兄ちゃん」
「いや、何となく」
 カレーを食べに来ないかとしか話していないのに、それでも、何も訊いてこない従兄に感謝した。話すには、まだ、時間が必要だから。
「上がって」
「うん、お邪魔するよ」
 従兄を伴ってリビングに戻り、適当に座ってくれるよう言うと、お湯を沸かしにかかった。まだ夕食にするには時間があるから、まずはお菓子を用意する。久し振りに逢っても、従兄とは変わらないことが当たり前になっている。好悪の感情を超えたところにある血の繋がりは、人に優しいものだと初めて知った。その関係が今は嬉しくて堪らない。甘えさせてくれる従兄がいて良かったと思う。
「−−ねえ、ちゃん」
 リビングから声を掛けられた。
「うん?」
「冴木くんの部屋はこの下なんだよね」
 急須にお茶葉を入れる手が止まった。
「……あ、うん」
「彼には声掛けた?」
 なるべく明るい声が出るように、顔を上げて、白壁を強く見る。
「うん。掛けようと思ったけど、お客さん、来ているみたいだったから」
 在り来たりの『残念だけど』という言葉も口に出来ない。そんな感情では追いつかないから、そのまま口を噤んだ。従兄は何か気が付いただろうか。今まで、何か気が付いただろうか。どちらでも、不思議はない。
「お客さんかぁ」
「うん」
“ピンポーン”
 タイミング良くチャイムが鳴り、これ以上、話が冴木くんにいかないように願いながら、リビングに戻った。
「あ、出るから、そのまま座ってて」
 椅子から腰を上げた従兄に早口で伝えると、インターフォンを取り上げた。
「はい」
『冴木です』
 その声に耳を疑った。
「……冴木くん?」
『そうです』
 どうして、彼の声が聞こえてくるのだろう?不可解なことに、頭が上手く回らない。
「あ、僕が出るよ」
「……え、だって。え、待って、あ−−」
 途惑う内に従兄が玄関へと向かい、引き留める言葉は遅すぎた。インターフォン越しに従兄の声と冴木くんの声が聞こえる。どうしたらいいのか、心拍数が上がった胸を受話器を置いた左手で押さえた。
 どんな顔をして、逢えば良いのだろう。手の下の奥が痛かった。
 のろのろと玄関に通じるドアへと近付くと、何ヶ月ぶりかの冴木くんの姿が見えた。きりきりと痛む心臓に彼のことが好きなのだと思い知る。
 話す言葉も見付からず、泣きそうな思いになった時、彼が私に向かって言った。
「どうしたんですか?!




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なんで終わらないんでしょう…(涙)。久方ぶりに、白川さん再登場です。
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