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幸福論改訂  +++++ 6
 涙の合間に、声を詰まらせながらさんは別れた彼氏のことを話した。話さずにはいられない心理状態に、携帯の有様に、どんなにその彼氏が好きなのか分かって痛ましかった。同じ思いではないけれど、似たような思いならした覚えがある。今はどんな慰めの言葉も心に響かないけれど、立ち直るには沢山の言葉が必要で、惜しげなく与えてあげたいと思った。
「−−ごめ、さえきく……」
 ようやっと顔を上げたさんが口にしたのは謝罪の言葉で、俺は苦笑した。
「構いませんよ、さん。泣けるだけ泣いて、話したいだけ話して。こういうことは滅多にないんですから、どっぷり浸かれるだけ浸かった方が良いんです。早く浮上しようなんて思わないでね」
「さえき、くん……」
 新たに涙が膨れる瞳にそっと指を伸ばして、それを浚った。
「ありがとう」
 まだ上手く笑えないのに、浮かべようとした笑みは痛々しくて、どうにかしてあげたかった。
「結構、役に立つでしょ、近所に知り合いが居ると。ゴミ出しも手伝えるし」
「うん。冴木くんが居てくれて良かった……」
 ふっと気配が緩んで、さんが柔らかく笑い、どこか真摯な声で言葉を口にした。一瞬前とは違うそれに、俺は口許に小さい笑みを浮かべた。
さんに、これからもっと良いことが訪れますように−−」
 泣き腫らして幼く見える彼女に、そっとキスを落とした。



 さんが落ち着いた頃、部屋を辞すと、階下の自宅に戻った。慌てて出てきたにも拘わらず、しっかり施錠もした自分を自画自賛する。今日はもう何もする気になれなくて、取り敢えずベットに横になった。
 一人暮らしに慣れてる風情のさんが、何故、毎週白川さんのところに顔を出すのか。引っ掛かっていたことが、思いも掛けず、氷解して何とも言えなかった。本当に初めてだとしても、生活に関わる難問など何だって明るく乗り越えそうな彼女に、敢えて必要とされた顔出し。あれは何事も無いという安心を白川さんに与えるのと同時に、さんにとっては彼の元に戻らないよう留める役割をしていたのかもしれない。いつだって明るく楽しそうで、そんな素振りを全く見せなかった彼女の、初めて見る姿は強く心の中に残った。
 さんのことを知りたいと、思った。

 翌朝、そろそろかと思う時間に窓際に立った。ベランダの向こうに駅へと向かう道が見える。珈琲を片手に数分、通りを見ていると見覚えのある姿が視界を過ぎていって、ほっと一息吐いた。
 いつものようにすっきりした歩き方に、ちゃんと起きれて、会社に行くくらいの気力は戻ったんだな。そう安心してから、いや違う、と思い直した。さんのことだから、反対に何が何でもそれこそ死ぬ気で会社に行くんだろう。全ての気力を振り絞って、いつもと同じように何もなかったように振る舞って。
 マグカップを掲げるように持ち上げると中の珈琲を飲み干した。そうやって、さんが戦うのなら、俺も今日の手合いで白星を手にしてこよう。そしてお茶会でも開いてみましょうか。


  †


 一日、ひどい状態で過ごして、帰路についた。寝付きが悪くて寝不足の上、見た目では判らなくなっていたけど、感覚的にはいまだに目が腫れているようだった。笑顔が仮面のように顔に張り付いていて、表情筋が強張ってどうにもならなかった。胃が重くて、お昼も抜いてしまったし、夜くらいはしっかり食べないと持たない。消化に良いうどんにしようと、材料を買ってマンションに戻った。通りから、ふと見上げると冴木くんの部屋のカーテンから明かりが漏れていた。もう帰ってきてるんだと思って、何となく安心してマンションに入った。
 三階の廊下を歩きながら、バックから鍵を取り出す。部屋の前まで来て、朝はなかったメモに視線が釘付けになる。絶対に見落とせないようなノブの少し上の位置に、セロテープで貼られた二つ折りにされた紙の表には“冴木です”と書いてある。鍵を開けるのも後回しにして、そのメモを手に取って開いた。

“今日の白星祝いにお菓子があるので、お茶に来ませんか?夕食が終わったらお電話下さい。お待ちしています”

 冴木くんらしい几帳面で綺麗な文字が並んでいて、笑みが零れた。小さく声を出して笑いながら、目尻に滲んだ水分を拭う。
 彼の柔らかい気遣いが何と言えば良いのか、ただ涙を誘って、胸の中に熱いものが込み上げる。気に掛けて貰っているということが嬉しくて堪らない。普段なら申し訳なさとか、気を遣わせてしまった不甲斐なさに項垂れるのに、ただ嬉しいという感情しか浮かばない。自分がそこまで弱っているのだと再認識した。
 まだ上手く昨日のことを消化できないでいるけれど、昨日の醜態の後でどんな顔をして会ったらいいか分からないけれど、冴木くんに会いたくて堪らなかった。
 手紙を閉じると、急いで部屋の鍵を開けた。早くうどんを食べて、電話しなくては。現金なもので、少しだけ食欲が戻ってきた気がした。




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お待たせしました。取り敢えず、一歩前に進もうと頑張る彼女に、手を差し伸べる冴木さん。良い男の冴木さんが目標なんですけれど、目標は月よりも高そうです…(涙)。                      20040301

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